Good afternoon

基本的に乃木坂について書いていくつもりです。自分の言葉に責任を持つ気が毛頭ない人たちが中の人をしており、それが複数名います。ご容赦ください。

ハロウェイ

その日はたまたま土曜日で、勤務地も六本木だった。室内にいた関係からまるで実感はなかったのだけど、外に出たら、そこには全く異なる光景があった。

そう、ハロウィンだ。となれば取るべき行動はただ一つ。僕はバイトを終え、たまたま居合わせた同年代の男女3人とともに、パリピの街、渋谷に向かった。

 

ハロウィンはトリック・オア・トリート。お菓子をあげなければ、子どもはイタズラをする。トラックを横転させたのを筆頭にその「素行の悪さ」が騒がれているが、なるほどイマドキの若いもんは、経済成長の恩恵をそんなに受けているわけではない。気づけばバブルは崩壊していて、生活保障システムの機能不全が明らかになるなかで、政治も「ぶっ壊す」だけぶっ壊してその先の展望がいまいち見えない。少子高齢化、雇用の不安定化、国際関係はニュースで日々緊張が煽られて、その割に「ゆとり」だ何だと文句を言われる。

こういう風に言うと、我々は「お菓子」をまるでもらっていないように思える。ただ、それでもって必ず終電を過ぎたパリピ・パラダイス・デイで素行の悪さを見せつけねばならないというわけでは、当然無い。社会運動論で言うところの集合行動論よろしく、不安をぶつけて集まるみたいな議論ではおさまりはつかない(もちろん集合行動論はこんなに雑な話ではない、念のため)。

では資源動員論的な発想ならどうだろう。社会運動論のなかで資源動員論は、集合行動論へのアンチテーゼとして生まれた。運動の参加者は単に社会不満を拗らせて後先無視して集ってるのではなく、実は合理的・戦略的なんだよというのがその基本的なメッセージだと言って、そんなに間違いはないだろう。この場合、適切に「資源」を「動員」する戦略こそが問われることになるのだけど、ウェイなハロウィン、通称ハロウェイにおいては、僕の知る限り、そういう戦略を展開する参加者は誰もいない。なにせみんな好き勝手に集っているだけだからだ。

 

こうなってしまうと、ああした集い方についての説明は、やや工夫が必要になってくる。管見の限り、主流な捉え方は「民度」によるものだ。かねてからハロウェイにおいては翌朝のポイ捨ての多さに代表されるマナーの悪さに注目が集まっていたが、それはどのような心理でなされるのかということだ。これは更に2つの流れに分けられる。一つは「最近の若者はやばい」という世代で区切ったもの、もう一つは「そもそも日本人なんてこんなもの」というものだ。一つ目はよく言われる議論だが、あのパリピたちのなかに、実は「若い」かどうか微妙な人もいることを説明しきれない。また、SNS等の情報にかんする環境変容は確かにあるわけで、本質的にそんな世代間の違いはないんじゃないのという批判もありうる。後者は、「日本人はそもそも空気を読むだけで」といったかたちの議論だが、大多数の「日本人」はこういうことをしない。そもそも渋谷型ハロウェイそのものが非常に都会的なイベントでもある。

これに対し、環境に注目した議論も、少数ながらある。「然るべき環境が揃っていないのだから、当然こうなる」といったものだ。具体的には、ゴミ箱の不足がある。渋谷駅周辺でいえば、交番前あたり(以前、喫煙所があったらへん)に特設のゴミ箱はあったけれど、それ以外には目新しいものは見当たらなかった。しかしパリピ達は酒を飲むし、何ならそれゆえのハロウェイだ。そしてコスプレをすればカバンは邪魔になる(ゴミ袋を持ち歩くミイラがどこにいる?)。このような、環境整備の不十分が、ああした結果を生んだというのが、この議論である。この場合は、行政の対応が問題となる。

 

さて、どれが正しいのか正しくないのかは、ぶっちゃけ分からない。ただし「民度」アプローチについて言えば、その「民度」とやらには、いかに訴えかければいいのかという問題が残る。なにせハロウェイに目に見える主催者ないない。言ってしまえば、このアプローチは、参加者一人ひとりの倫理観みたいなところに頼るしかないが、それゆえに、あまりにも心許ないのだ。人は時によっちゃフリーライダーになるというのが経済学のメッセージだということを忘れてはならない。

そもそも、「民度」とやらに訴えかけるアプローチは、政治的バイアスが関わってくるので扱いづらいし、場合によっては解決を遅らせる。例えば「日本人は本来は静かな民族でマナーを守り」的なことを言えば左派は対抗するだろうし、実際に「日本人」なるものの本質を定めて規制を行うのは規範的にも肯定されにくいだろう。世代間対立を過度に煽るのもいただけない。何より、若者にも踊る権利くらいはある。さらに議論が規範をめぐり紛糾すれば合意は遅れ、それは対応の遅れへと繋がる恐れもある。

 

というわけで、有効な手立ては行政の側にのみあるというのが僕の見立てだ。これには非常にざっくり分けて、「規制」と「支援」の2つの方向がある(なおこれは武川正吾さんを参照しつつ、しかしかなり違う用法で使っている)。

順に説明する。「規制」は簡単で、「ハロウェイはやばい。やばいからやめさせる。パリピむり」というものだ。具体例なのかは分からないけれど、大方、その日暴れた奴を一斉検挙していく感じだろう。ここまで大仰でなくとも、行動の幅を狭めるやり方はいくらでもある。

もう一つは「支援」で、これは「ハロウィンはもう文化。文化だけど、さすがにこれは危ない。というわけで、安全に終わるように環境を整えよう」というものだ。たとえばゴミ箱の大量設置は、各企業にとってそこまで魅力的な策ではない。ゴミの処理を受け入れるコストがかかるし、何より「隣の店がそれをやってくれたら自分の店の前に捨てられうるゴミはそっちに集中する」という計算のもと、合理的に自分はゴミ箱を置かないという発想に至るかもしれない。そこで行政がイニシアチブを取り、ゴミ箱を多く設置したり、また商店街(といった分かりやすいくくりなのか、それとも各店に対してなのかは置くとして)に対してゴミ箱設置命令を出したりとかすることが考えられる。

規制と支援の違いは、「暴徒」とみなすか「お祭り」とみなすかに対応すると思う。前者であれば規制する必要がある。何せ暴徒だし、何ならトラックを転倒させている。後者ならば、むしろ円滑に回すべき対象とみなされ、サポート策が取られる。この場合は行政の対応力不足が問題となる。何せこいつらはトラックをひっくり返している。ただし祭りの主催者はいないので、環境整備を全力でやる必要が出てくる。

この対応の違いは、現場の積み重ねで生まれる。たとえば、ロフト手前エリアの道は一通なのだけど、24時になる前くらいには、そこでサウンド・システムを大量に取り付けた車が停車し、爆音でレペゼン地球を流していた。爆音があれば踊るのがパリピである。そして一通はさらに塞がれ、クラクションが鳴る。こんなのは警察が秒で十数人単位で駆けつけて今すぐにでも爆音やめさせてパリピを歩道に戻し車を前進させなければならない。しかし管見のの限りでは、警察はあくまでスピーカーを用いた「警告」をしただけだった。僕がそこから離れた後に警察が駆けつけていたのかもしれないが、それにしても遅すぎる(なお僕はそのパリピ輪の中には一切混じっていない、念のため)。しかしこのような規制の機能不全は、結果としてハロウェイの暴徒化を許容し、事後的に「規制」言説を強めた。「あいつらはやばい」という言説だ。これは現場での規制の弱さと戦略ミスゆえだが、それ故にハロウェイは、「もっと適切な支援のあり方があるよね」といった支援的な対象でない、「暴徒」を押さえつける規制の対象とされる。

加えて、そもそも行政の側にハロウェイを支援するメリットもそんなにはない。何せゴミは捨てるわ痴漢も発生するわトラックを横転させるわと、普通に考えてロクでもないことが起こっている。わざわざ「支援」してやる義理はないと考えるのが普通だろう。よほどのことがない限り、政治は危ない橋を渡らない。

 

まとめる気はない。ここまで書いたのは、基本的には「なんかこんなことふんわりおもいました」くらいのことに過ぎないからだ。僕自身は、ああいうおちゃらけた空間は好きだけれど、痴漢も発生し、トラック横転、一通は塞がれてゴミは大量に捨てられるなど、全肯定する気になど、とてもなれない。一方で、あえて嫌な言い方をすれば、行政の側がうまいことハロウェイを「体制内化」できるんじゃないのかねとか思っているのも事実だ。

ただここまで書いてきたように、僕はこの問題について、あえて言えば「集合行動論」的なアプローチは取っていない。どちらかというと環境整備にコミットする行政、とりわけ、どのような言説がどのような過程を経て主流になり現実の規制ないし支援に繋がっていくのかに注目している。なので、サッカー日本代表のアレコレも含めたこの手の話について、「ネタ」が揃うのもしばらく先ではないかと考えている。ここで言いたいのは、面白い文化批評みたいなものは今後いくつも出てくるだろうけれど、それがどの程度きちんとした実証モノなのかといえば、それはまた違うのだろうということだ(その上で、文化批評的なものにはそれ特有の重要な意義があることも強調しておきたい)。

思い出すのは、学部4年の終わりの「卒論お疲れ様飲み会」だ。あの場に集まった奴らは、実はほとんど全てが、卒論を真面目にやっていなかった。なら何でそんな飲み会をしたかといえば、ただ単に、飲み会をする口実が欲しかったからに過ぎない。でも、ハロウェイもW杯も、基本は似たところなのだと、勝手に思っているし、それはそんなに問題ではないとも思っている。

ストレスが溜まったわけでもない。飲みたいだけなのだ。騒ぎたいだけなのだ。ただ、それには一定のモラルが求められる。僕はどうしても良心に訴えかける発想がストンとこないので、環境を整える方向や、その内部でどんな対立軸があるのかとか、そういうことばかりを考えてしまう。

 

(追記)

今回は議論の単純化のために「支援」と「規制」を対立的に使ったけれど、もちろんそんなことはないということは強調しておきたい。例えばここでいう「支援」に取り組む場合、トラックを転倒させたり多発する痴漢行為に対して十分な規制を行う必要が生じる。逆に、こうした規制を怠ったまま支援するとなれば、それは大問題だ。行政がこのような(集団的な)暴力行為を是認しているに等しいからだ。このように、支援と規制は別ベクトルの議論であって、それらをいかに組み合わせるかが問われるべき事柄となる。

沖縄県知事選について

沖縄県知事選が終わった。結果は玉城デニー氏の勝利で、自公が気合い入れまくって推薦していた佐喜真淳氏は敗北した。あれだけの選挙運動を展開したにもかかわらず、創価学会員の4人に1人が玉城に入れたという噂もあるようで(自分で調べたわけではないので真偽のほどは知らん)、自民党総裁選で石破茂が予想以上に多くの党員票を獲得し善戦したことを合わせると、安倍政権は空中戦に注力する一方で、その足元からほころびが見え隠れしているように思える。少なくとも、この2つの結果は、次の参院選で何かしらの影響を及ぼすだろう。

この選挙で2つ、気になったことがある。一つは佐喜真について、もう一つは玉城についてだ。そしてお気づきの通り、面倒だから敬称的なものは全て省くことにする。

1. 佐喜真について気になること--携帯料金は減らせる?

まず最初に気になったのは、佐喜真の公約だ。念のため言っておくと、僕は関東圏に在住しており、そのこともあって両者の政策パンフレットやチラシ等の物品は持っていない。よって、僕が主に参照するのはウェブサイトの情報となる。そして、これが佐喜真のウェブサイトだ。

atsushi-sakima.jp

まぁなんていうか、わりとよくある政治家のウェブサイトを、ちょっとよくした感じのつくりだ。多分、ケータイの方が見やすいと思う。

気になったのは政策だ。背景が赤でなかなかごついけれど、とりあえず色々なことを言っている。本当に色々なことを言っていて、たとえば「女性活躍」のところの「うない会議」とかは、一見リベラルの主張にも見えてしまう。ただし、やりたいことリストの羅列のような書き方でもあるので、ポイントがどこなのか、どういう理念に基づいてどういう優先順位をつけているのかが、全く見えてこない。加えて、具体的なこともほとんど書いていない(基地のところは、さすがにそこそこ書いてはいるけれど)。

そんななかで一際注目を浴びたのが、携帯料金4割削減を求めるという公約だ。「求める」のか「削減します」なのかが最後までよく分からなかったけれど、キャッチーな政策であることに違いはないし、実際に携帯料金は高い。格安SIMを使えばいいじゃないかという議論もあるみたいだけれど、それだと情報格差とかが問題になってくるので、一律的な取り組みに意味がないわけではない。ただこの公約で同時に注目されたのは、「それ、本当にできるの?」ということだった。

結論から言うと、できなくはない。多分。

琉球新報』が報じていたように、引き下げを「求める」ことはできる。ただし、事業者側がそれに従わなければならないというわけではないので、強制力を持たせるためには、そのようにする法律を作るしかない。とすると、そんな法律が作れるかどうかというのが焦点になる。ここで注目したいのは、もともと携帯料金の削減は、官房長官菅義偉が唱えていた政策だということだ。さらっと検索した限りでは、8月の段階で菅はこの問題に言及しており、その際、公取委との連携で何とかしようと考えていたらしい。「国民の財産である公共の電波を利用して」というフレーミングを用いており、全国一律での料金引き下げを目論んでいたことがうかがえる。そしてその菅は、沖縄県知事選では積極的に沖縄に入っていたのだ。

つまり、佐喜真は携帯料金引き下げを、決してできないわけではなかったのだ。ようは中央政府との連携関係を密にしつつ、菅の語る政策を地域・年代両単位で部分的に導入しようという、つまりは国策の試験的な導入所として沖縄を置くというかたちで、公約を果たすということだ。

ただしこの場合、当然ながら、中央政府との密な連携が前提となるため、では基地はどうなるのか、という問題が出てくる。もし基地反対の姿勢を出すのであれば、佐喜真には沖縄を試験的導入所として置く代わりに基地については妥協しないという交渉が求められることになる。ただ、そもそも支持層を保守勢力によっており、かつ中央地方関係で見ても、悲しいかな、交渉力を奪われてきたからこそ翁長全沖縄県知事が求められた面があるのであって、その意味で佐喜真は、基地問題か携帯問題かのどちらかを「捨てる」ことが、公約段階で迫られていた。

なお携帯料金については、「実質的削減」とか言って、携帯を使っている若者(世帯)向けに手当やバウチャーを給付するという手もあった。ただしどちらにせよ財源負担はどうなるのかという問題は残る。この点についての佐喜真からの解答を僕は知らないので、そこについては触れないことにする。

2. 玉城について気になること--イデオロギーよりアイデンティティ

さて、次は玉城について。玉城については「翁長前知事の意思を継ぐ」というかたちで、主に基地問題への姿勢がクローズアップされてきた面があるけれど、ここではあえて生活保障について見てみたい。

tamakidenny2018.com

ウェブサイトは典型的なペライチ仕様。これ、いつまで流行るのだろうか。まぁ選挙みたいな特設ページが求められるタイミングでは、シンプルなつくりでうってつけなのかもしれない。

佐喜真と対照的に、玉城は政策をかなり絞るかわりに、ポイントを見えやすくしている。これにかんしては、どちらが良い悪いというのではなく、おそらくは「どっちもやれ」という話なのだろう。その意味で、玉城の掲げる政策の総体が見えにくいのは、いささか残念でもある。

とはいえポイントが絞られている分、注目すべき箇所もわかる。気になるのは、玉城が公約の第一に「社会的投資戦略」を掲げていることだ。僕はステキな性格をしているので、テクニカルタームを入れるだけ入れて「人への投資は、無駄ではない、戦略なのです」みたいな、その言葉を明確に回収する説明がないのは、単にタームの無駄遣いなんじゃないのとか、決してツッコんだりはしない。もちろん、一部の層には社会的投資戦略は経済合理性に福祉を服従させかねないとか何とかで評判が悪いとか、そういうことも絶対に言わない。

が、社会的投資戦略それ自体は重要だ。論者としてよく知られるのはエスピン=アンデルセンだけど、文字通り、福祉を「社会的」な「投資」の「戦略」として捉えようということだ。福祉の充実と経済の成長は、しばしばトレード・オフの関係として語られていた。福祉を充実させすぎると頑張るインセンティブがなくなるみたいな話だ。しかし社会的投資戦略は、福祉の充実を成長の妨げとしてでなく、社会の活力と成長をもたらす「戦略」として捉えるところにポイントがある。

そう、ここで問題になっているのは、社会の活力を支える土台なのだ。だからこそ玉城の政策では、「新時代沖縄はみんなでつくりあげるもの」「『ウチナーンチュ』という一つのアイデンティティ」「沖縄にしかない価値」そして「誇りある歴史」を掲げる。そしてこれらは、生活保障から基地問題解決まで、一本の線で繋がっている。生活保障の充実は沖縄の人びとの活力を最大限に引き出す。そのことによって、徹頭徹尾、沖縄の人びとから始まる政策構想を提示する。翁長前県知事は、保革対立(イデオロギー)を超え、「オール沖縄」の流れのなかで、「本土」の押し付けに対抗的な沖縄アイデンティティを訴え、勝利し、最後までその姿勢を貫いた。沖縄という土台から始め、その沖縄という土台の活力を支えるという意味で、玉城の政策は、実は翁長の時からの一貫性を、その政策構想のなかで体現していた。

この意味で、玉城があくまで政党からの「推薦」でなく「支援」のかたちで戦う一方で、佐喜真が自公からの推薦をうけ、しかも「選挙の顔」としても強い小泉進次郎を(たしか)2度も、しかも菅義偉とセットで派遣したのは、対立構図として興味深い。あえて玉城のフレーミングに乗っかれば、まさに今回の県知事選は、「イデオロギー」に対抗する「アイデンティティ」の政治だったのだ。

3. おわりに

今回の県知事選では、両候補とも生活保障についてかなり踏み込んだ言説が見られたように思う(もちろん、これまでの候補がそれを言ってなかったわけではない、決して)。ただし、「基地問題を訴える〇〇か、生活保障を訴える△△か」という対立構図で理解しようというのは、端的に言って間違いだ。上でも示唆してみたように、これらの問題は相互に連関して一つのかたちを成している。そしてそれは県知事選である以上、中央政府との関係においても語られる。沖縄であれば、なおのこと。

最後に一つ言っておきたいのは、今後の生活保障のビジョンを語る上で外せないのは地域主導であり、その際求められるのが「地方分権」だということだ。この言葉はやけネオリベ的なノリに毒されている面があるけれど、地方分権というのは地方の権限を強めることによってより柔軟な個別具体的なニーズに応えられる体制を作っていこうよ、という話なのであって、間違っても中央政府の責任放棄という話ではない。

沖縄県知事選が示したのは、まさしく「地方分権」のひとつのかたちなのではないかと思う。その地方のアイデンティティを自覚しながらまとめあげ、その活力を生み出していく戦略は、まさに地域主導型生活保障のひとつの姿と言える。そして、そのアイデンティティのかたちは、基地問題をめぐる沖縄のこれまでの運動の積み上げのなかで生まれたものであることを決して忘れてはならない。

今後、どれだけ沖縄が独自の、柔軟かつ創造性にあふれる生活保障の戦略を練っていくかは、どれだけ沖縄が独自の権限をもって個別具体的なニーズに応えられるのかによっている。そしてその際、玉城が公約のなかで、ボトムアップ型民主主義の構想を提示していたことは重要だ。ニーズを表出し、それを政治へと組み上げていく回路こそは、まさしく民主主義の制度構想のキモの一つなのだから。

本土に生きる我々が受け止めるべきことは多く、あまりに重い。沖縄が出した一つの答えを、真正面から受け止めなくてはならない。

会長

最近、研究をサボっていた。

 

いや、「最近」でもないのか。じゃあお前はその間何をしていたのだと聞かれたら、「アニメ見て、漫画読んでました」としか答えられない。

元々僕は、年末→正月にかけて、ダレる。大学受験のときもそうで、ここら辺のオンオフを過剰にしっかりさせることがもはやアイデンティティみたくなっているところもあるので、ちょっとやそっとで治せそうにない。問題は、ではいつスイッチを改めて入れるかだ。

大抵は、授業だったり、仕事だったりと、再始動の日程が決められているから、そこに合わせる。ただし、その時までは、まず自主的には動けない。というわけで僕は、授業再開が遅いのをいいことに、ずっと怠けていて、その期間が長すぎたこともあって、今でもダレていたわけだ。

 

最近見て、読んだのは、『会長はメイド様!』という作品だ。友人の関係で、たまたまアニメを見る機会があり、これは面白いかもしれないと、単行本を読んだ。そして、その単行本も、良かった。Wikipedia先生によると、掲載期間は2006年6月号から、2013年11月号。作中ではガラケーが使用されていて、物語の終わり頃では、碓氷くんのお兄さんが「スマホ使えば?」的なことを言っていたあたり、技術の進歩を感じる、まぁそんな頃の作品だ。友達に「これ面白いよね」的な話をしたら、今更?的な反応が多かった。「小学生のときでした」と言われた時には、さすがに心が折れそうになったけど。

最初このアニメを見たときは、この作品はセクシズムについて扱っているのかなと思った。主人公は生徒会長で、威厳がある。女子が少なく、元々それなりにガラの悪かった(ヤンキー校という感じでもなさそうだけど)星華高校を女子生徒にとってもっと過ごしやすい環境にするよう、しょーもない男子生徒たちと格闘しつつ、日々励んでいる。他方、家計は苦しく(物語が進むなかで、少なくとも主人公が思ってるほどには苦しいわけではなかったと説明がある、事実としては、割とシビアなのだけど)、割りのいいバイトとして、メイド喫茶に勤めている。だけれども、会長としての「威厳」があるから、みんなにはナイショにしている。

会長としてのスタイルは、その戦闘性にある。なにせ男子生徒がやかましいものだから、いちいち懲らしめなくちゃいけない。だから、男子生徒からは、恐れられつつ、嫌悪感も抱かれる。でも、そのスタイルがうまくいかなくなったとき、もう一人の主人公である碓氷拓海くんに、「もっと男子と協力したら」的なことを言われる。主人公は少しずつだけれども、男子生徒の話も聞き入れつつ改革を進めていく。白眉としては、雅ヶ丘高校(ウルトラスーパー金持ち学校)の生徒とのイザコザの際、主人公が、星華の男子生徒が雅ヶ丘の生徒を殴った理由を聞いて(その雅ヶ丘の生徒の親が経営しているチェス・ショップを見ていたら一方的に「ハエ」呼ばわりされた)、雅ヶ丘に出向いた際に「こっちにも非があるけど、まずお前が謝れ」と言ったシーンがある。星華のその二人の男子生徒は、後に主人公を「意外と話が分かるし、きちんと俺たちの声を聞いてくれて、俺たちのために動いてくれる」と認識し、頼り、また生徒会選挙の際には応援に転じる(このシーンは、アニメでは無い)。

主人公(の、名前を言うのを忘れていた、鮎沢美咲さんという)が、家計が厳しいにもかかわらず生徒会長なんて面倒なことを、しかもかなり積極的に引き受けているのには、その「男嫌い」がある。父親に見捨てられたのだ(後に設定修正が入る)。その意味で、主人公は、自分の経済環境より前に、「男嫌い」というある種の理念をもって、男子生徒が多くかつ下品で女性抑圧的だという学校の構造を改革すべく、生徒会長に就任したということになる。主人公は戦略的なアクターというよりは、衝動的なアクターだ。とはいえ主人公は努力を決して怠らないし、むしろこの点が超人じみている。だからときに空転する。そんななかで、碓氷くんがある種「クッション」的にも機能する。

また、この作品には、兵藤葵というキャラクターも登場する。完璧な女装をするこの「男の子」は、「心は女の子」ではなく、可愛いものが好きなのだという設定をもつ。しかし厳しい父親にそれは認められない。主人公のバイト先である「メイド・ラテ」に入り浸るようになり、そのなかでの承認もうけつつ、自分のあり方を無理なく肯定していくようになる。

 

ここまでは、アニメで触れられている話だ。しかし漫画は続く。その漫画後半部では、碓氷くんの出生の秘密とともに、イギリス上流階級との対抗が描かれる。とんでもなく複雑な出自をもつ碓氷くんは、まず雅ヶ丘高校に転校し、イギリスに発つ。それを追うように、主人公はイギリス上流階級のマナーを、たまたま利害の一致した(一応)雅ヶ丘高校生徒会長の五十嵐虎の多大な協力を得て、追う。ここでは、階級格差を乗り越える愛がテーマとなる。

しかし思えば、もともと漫画の方は、はじめから、少なくとも、格差をテーマにしていた。主人公の家計は苦しく、他方で自分自身の理念を貫くべく生徒会長の座に就き改革に着手するも、しかし苦しい家計ゆえに行っているアルバイトのことは、誰にも言えない。平たく言えば、自分がただ貧しいがために置かれた状況と戦略に、主人公自身がそれを公言できない。自らのありようを自己否定させるメカニズムがここに垣間見える。

しかし物語の展開のなかで、これは階級漫画になる。明け透けなイギリス上流階級との触れ合いのなかで、主人公は自身の置かれたあまりの「無力」さを痛感する。

 

セリーナ・トッドを参考にすれば、階級とは一つの関係だ。まぁ、これはわりかしありきたりな定義でもあるけれど、その関係が露骨に、しかし物語の確かな延長線上に、あらわれる。階級が関係であるならば、話のはじめから、あまりの格差ある二人のエピソードそれ自体が、それを乗り越える愛のあり方をめぐる、つまり  “そうでない” 関係をめぐる物語だったと言える。

でも、このことは物語が展開してみないと分からない。だからこそ、『会長はメイド様!』は、アニメ化に成功した。作品の切り取るところが違えば主題は異なってくるし、それは思想・哲学に携わるまでもなく、論じることを経験した人なら誰しもが知っていることだ。この作品は、アニメでは前半部のみを切り取ることによって、ジェンダー・イシューないしはフェミニスト戦略の転換に焦点を当てた。そして漫画全体を通じ、それらが関係としての階級という視点のなかで再解釈されていく。

関係のありようは、誰に言われるまでもなく、多様だ。経済的な格差か、もしくはジェンダーか、みたいなただ一つだけの区分けは存在しないし、実のところ、当人たちにとって、そんなものはどうでもいい。一人歩きしたそうした「形式」だけが、身勝手に引き裂いてくるだけだ。鮎沢さんも碓氷くんも、そうした、一人歩きした「階級」やら何やらに、振り回されることになった。しかし二人は一貫して、自分たちのやりたいようにやった。つまり、鮎沢さんは碓氷くんのことが好きで、碓氷くんは鮎沢さんのことが好き、ただこれだけだ。そして、『会長はメイド様!』の主題は、切り取る点がアニメが前半部のみであったとしても、変わらない。ジェンダーがイシューだとしても経済格差との格闘が舞台であるとしても、通貫しているのは、ただ単に、「でも私はこの人が好き」というものだ。

 

実はあの世界的ファンタジー小説ハリー・ポッター』も、階級をテーマにしている。この指摘自体は多分目新しいものでもないから、特に詳述するつもりはないけれど、作者のJ.K.ローリングの構想としてはおそらく、「階級を乗り越えるものとしての愛」というのが、一つのテーマになっているのだと思う。愛を知らないヴォルデモートは、その出自に絡め取られながら救いのない悪の権化となってしまった。それに対してハリーを常に守ってきたのは、額に刻み込まれた稲妻型の愛だった。

国境、性別、生活環境と、僕たちはいつも何かしらの境界線に区分されながら生きている。だけれども、その境界線自体はあくまでつくられたものでしかなくて、だからこそ修正可能性も、はたまた飛び越える余地もある。でもそれは大変な仕事だ。愛は狂気に似ている。それは境界線を軽々と飛び越えて、人をつなぐ。

最終話、2人は結婚し、鮎沢さんは外交官に、碓氷くんは医者になる。どちらも「イギリス上流階級のなかで認められるため」といった要因があり、特に鮎沢さんについては碓氷くんとより対等に近い状況に自らを置くための戦略だ(その後、強くやりがいを感じている)。一見、境界線の論理に巻き込まれたかのように見える。でも2人は、披露宴が終わるや否やヘリコプターで脱出、2人だけの世界へ入る。穴を開けられた境界線は、塞がれるとしても、決してその原型をとどめない。穴をあけるにも戦略はあり、既存の秩序にも見るべきものがある。革命ではないけれど、しかし漸進的な変容もまた不可逆的な変化のはずだ。そうしたものを描いていたのだと読んでみるのは、さすがに考えが過ぎるだろうか。

———

(下書きはおそらくは半年以上前で、オチとかもなかったのを、なんとなく加筆したうえで載せました。タイトルは今つけました)