Good afternoon

基本的に乃木坂について書いていくつもりです。自分の言葉に責任を持つ気が毛頭ない人たちが中の人をしており、それが複数名います。ご容赦ください。

「予防」と「共生」のジレンマ?——介護保険の新しい展開と展望

 2019年5月中旬、政府が今夏に策定する認知症の新大綱について、認知症の人の人数を削減する初の数値目標を定める方針を定めました。2025年までに70代人口に占める認知症の人の割合を6%減らす案で調整を進めているようで、報道各社が論じているように、背景には「予防」の推進による社会保障支出の抑制が目論まれています。もっとも、当の認知症予防策については手法がいまだ確立されていないのが現状であり、加えて認知症は進行を遅らせることはできるものの投薬による治療が不可能のままで、そもそも投薬による副作用の深刻さや効果の薄さ等の理由もあって、認知症対策とされている薬品が保険適用外となっている先進国も多々あります。こうした背景があるにもかかわらず、今回政府がこのような方針を打ち出したのは、いささか不思議でもあります。

 この政府決定は、そのような「効果の薄さ」のみで判断されるべきではないとうのが、本稿の立場です。今回の大綱案では、「予防」に加え「共生」が打ち出されています。そして強調したいのは、財政逼迫言説のなかでの「予防」の強調が、二本柱の一方である「共生」を損ねかねないものであるということです。

 

 あえて大別すれば、医療技術には「治療」と「予防」の2つに大別されます。「治療」は言わずもがな、すでに発病した人が医療にかかり、「患者」として認定されることによって、投薬をはじめとした医療的ケアを受けることを指します。ここで重要なことは、「治療」は「治る」こと、すなわち「患者」から「健常者」への回復、いわば「世界への再生」が予定されているということです。

 これに対し「予防」は、あらかじめ「健常者」である人が「健常者」のままでいることを求める医療技術です。「世界への常駐の意思」とでも言うことができるかもしれません。そして、それゆえに「予防」は、「健常者」の方が望ましいというスティグマに似た価値観を、拭い難く内包するのです。なにせ「予防」は、「患者」となることを避けるための医療技術なのですから。

 問題は、これが国家財政の理論と連携することです。というのも、日常における「予防」を奨励するということは、「治療」にかかること、すなわち「患者」となることそれ自体が、すでに国家財政にとってコストであること、そしてそれはコストであるがゆえに避けるべきであると見なされることを意味しているためです。敷衍するならば、もはや「社会保障費の抑制や削減というコンテクストにおいては、病という状態に陥り、治療を求めることはもはや贅沢となりつつあ」り、「とすれば、人間は病に陥る前に、日常から予防しなければならない」のです(渋谷望『魂の労働——ネオリベラリズムの権力論』2003年、青土社、p.172)。

 なるほど、確かに福祉国家は「健常者」の労働能力を活力に経済発展をしつつ、そこから外れた諸個人にパッケージ化された「治療」を行うことによって、労働界への再生を企て、またそれが叶わない者に対しては一定の保障を行ってきました。しかし「予防」が「治療」と対置されつつ強調されるとき、もはやこのような福祉国家の論理さえもありません。すなわちここにあるのは、諸個人の健康それ自体の自己責任化なのです。

 

 もし本気で「共生」を謳うならば、何よりもまず、「認知症になったとしても、全く問題なく、共に生きることのできる社会」を望むはずです。しかし現実を見れば、認知症の人の置かれた環境は決して好ましいものではありません。スティグマを散々貼られ、「言葉の通じない人」として扱われ、「こうなったら終わり」と蔑まれ、挙げ句の果てに国家レベルで社会保障費の抑制対象とされるほどです。しかし、こうした視点は果たして、誰しもが望むものなのでしょうか? あなたも、あなたの両親も、知り合いも友達も、そして私自身もまた、認知症になりうる存在なのです。もしあなたが認知症になった時、世間からそのような眼差しを受けることを、本気で臨みますか? 少なくとも、私は嫌です。しかし現実には、「予防」が前面に出る限り認知症の人へのスティグマは消えず、またそれが社会保障費の抑制と結びつけば国家にとっての「お荷物」とされています。

 まず「共生」が先に来なければならないのは間違いありません。しかし大綱案においては「予防」と「共生」は二本柱として対等に扱われつつ、かつ「予防」の数値目標(それも、効果さえ曖昧な!)のみがクローズ・アップされているのです。「予防」と「共生」はジレンマに立たされつつ、しかし国家財政なるものの都合によって前者が事実上後者に対し優位に立ち、かつ後者が毀損されているのです。

 

 ここで私たちが振り返るべきは、介護保険の独自性です。実は介護保険は、保険でありながらもその財源の半分を税収によってまかなっているのです。多方でそもそも保険とは、「共通のリスクに備える」という相互扶助的な側面があります。かつ保険料の支払いは医療保険と統合されつつも40歳からの加入を強いられていますが、末期ガンをはじめとした病状にかからなければ保険適用内とはされず、かつ65歳を超えても介護認定を受けていない人が多いことからも明らかなように、個々人の状況に応じつつもその適用範囲が実は狭いものです。このように考えると、介護保険という仕組みは、かなりのほど「赤の他人」によって担われている面が大きいことが分かります。加えて、介護保険は「措置から契約へ」という言葉にもあるように、もともと行政によるある種恩情的なサーヴィスから個人間の「契約」へとシフトしていった面があり、しかしもともとが専業主婦によって担われてきた=専業主婦が担わされてきたケア労働をめぐる制度という面があります。

 その結果介護保険は、その必要性が周知されつつも、しかし独自性の低いスキルとして介護労働の低賃金化が改善されないまま、支出-受給感覚も曖昧なままとなっています。そして認知症の人をどう扱っていいのかわからないまま、少なくとも「認知症にはならない方がいいだろう」という建前で、社会保障費の抑制を目的としながら「予防」が打ち出されているのが現状なのです。

 そのため、「共通のリスクに備える」という保険原理に込められた「共通」性は損なわれ、あくまで「共通」に行っているはずの自己責任的な健康管理に失敗した者が、恩情的に給付されるものとして介護保険が機能するのです。他方で、介護保険はそれぞれのサーヴィスを「時間」で測ったうえで提供するサーヴィスを規定しています。その限りにおいて、介護保険は目の前の他者をひとくくりにした上で一律的なサーヴィス提供を強いるものとして、介護提供者を支配します。

 

 今回の大綱案の問題は、認知症の人へのスティグマを所与とした上で財政逼迫言説を用いたことにあります。その結果もたされるのが、認知症の人へのさらなる偏見であることは、これまでに示唆した通りです。世界における自らの位置の保障としての〈人権〉が、他ならぬ主権国家によって担われてきたこと、それゆえに主権国家から「さえ」排除された「個人」が、本来ならばもっとも人権の保障をされるべきであるにもかかわらずその保障から排除されているというジレンマは、すでにハンナ・アレントジョルジョ・アガンベンが指摘してきたことです。そして「予防」イデオロギーは、これまでの記述を踏襲すれば、「世界」へと留めおくための言説であり、しかし認知症というある種不可逆的かつ(少なくとも現代医療技術にとって)回復不能とされる病状の進行それ自体を必然的に忘却しつつその状況に陥った人を「余計者」として周辺化しうるものです。他方で「治療」イデオロギーは言わずもがな、その「病理」に追いやられた人を周縁化しつつ既存世界への「回復」を強いるものとなりうるのもまた自明の事実と言えましょう。ならば、これに対抗するために必要なのは、「認知症の人が、認知症であったとしても問題なく共生できる社会」の構想しかないのは、自明のことと言えるでしょう。それは主権的な発想とも、いわゆる「病院」的な発想とも異なる、かといって既存の介護思想とも異なる地平を築くはずです。それは「ただ共にいる/あること」を肯定するものです。故に「時間」をはじめとした合理的なrational発想を基盤とする介護保険とはどこか折り合いがつかないのも納得がいきます。

 仮にケアの労働化が正当であるとすれば、それは十全な所得保障が条件であり、それを基盤とした〈その先〉への可能性ゆえでしょう。無論、確固たる所得保障なくば、ケア労働は「ためにする」労働を超えることができず、結果として周縁化された労働としてのスティグマをケア労働者に押し付け、結果として自らの職責に応じた「ためにするケア」を是認することになるでしょう。何せ、ケア労働がかろうじて生き抜くための「誰にでもできる」手法と「成り下がる」のですから。そうではなく、ケア労働者当人が余裕をもつことができる条件を探すことこそが求められます。常に〈その先〉を展望することのできる、そのための「余裕」、これは所得面においても、また精神的環境としてもそうです。誰だって不用意なスティグマを貼られたくはない。ならばこそ、そのための条件を探ることは重要であるし、少なくともそれは、「予防」的見地に毒された「世界」の固定化ではないはずです。異物としての他者と触れ合うこと、それは世界そのものを変革させてしまう、文字通りの意味においての〈革命〉なのですから。そして介護保険下で「働く」ケア提供者たちが、常にその限界を内破しているのは周知の事実です。

 

 

*もともとは別の掲載媒体を予定して書いた文章ですが、あまりかたちになっていなかったため、テキトーに加工したうえで本ブログに載せました。

穴を開ける

新年度が始まり3ヶ月目に突入したわけだが、実はこの間、僕の生活環境は大きく変わっていて、それは僕に読むべき本や思考のスタイルをはじめとした種々の変化を強要する類のものだった。とはいえやはり、僕は個別具体的な素材を調理する方が得意らしい。即ち、いわゆる「社会的」とされるイシューを題材にしつつそれについての言説を分類した上で評価し、自分の視点を(信頼できる議論もたまに引きながら)紹介した上で論じてみる、そういったやり口のことだ。でも僕の今の現場はどちらかというと、言葉が通用しない方に区分される。Aと言ってもAは伝わらず、Bを求められたから提供しても実はCであったことが数日後に判明し、Dという欲求を当の本人が自覚していない、そんな場所だ。そしてこれは他ならぬ僕たち自身の話でもあった。

僕の最近の雑感は、「認知症が分からない」だ。なるほど脳の症状である以上、それはその人の認知機能に独自の影響を与え、ディスコミュニケーションを生じさせる。でもそれは別に「健常者」の世界でも往往にして起こることだ。なるほど便意はあるだろうし、部屋の整理も着脱衣も、基本的には自己の管轄内にあるだろう。しかしヨリ細かく見れば、そこに病理を理由にした明確な断絶のないことに気づく。プライドに抵触した、自分流のマナーに反した、小馬鹿にされた気がした、何でもいいけれど、それだけで僕たちの応答関係は途絶える。認知症の人の生きにくさを生み出しているのは、他ならぬ「健常者」を自称する僕たち自身であることは、言うまでもなかろうか。

今はどうか。なかなかどうして、日本政治は財政難を理由にした社会保障支出の抑制を好む傾向にあるようで、借金返済とやらを言い訳にした「予防」策の強調——それも文字通りの意味で「無根拠」な!——が、あろうことか「共生」と並べられる有様だ。言うまでもなくそれは認知症の人へのスティグマに基づきつつそれを強化する類のもので、当然許容できるものではない。加えて「人生100年」言説は現役世代/高齢者という、それ自体褒められたものではない二分法を、できる人/できない人という新しい区分けに更新することによって新たなる階層化を助長しうるように見える。交通事故は車という生きがいを無条件に奪う方向に働き、挙げ句の果てには悪質なビジネスが職務を放棄して孤独死を生み出した。生産的でないから、コミュニケーションが通じないから、そんなふざけた理由で、国家的な都合をももって、白い目で社会的に眼差されることが規範的に正当化される道はないだろう。しかしその視点は既に我々のなかに埋め込まれている。

ならばこそ僕たち自身の社会そのものが変化を強いられている。即ち、異なった人が、異なったまま生きることのできる社会。(ネオ・)リベラルな展望の跋扈する現代政治を思い出す度に僕が不思議がるのは、どうして彼らは、人間を起きて飯を食って寝る生き物だと盲信しているのだろうということだ。現場に立ったことのある奴だけが、その意味を理解している。今日は、小さな部屋をはしゃぐ子どもの姿を一緒に思い出して、乾燥気味の目玉に、勝手に湿り気を与えていた。

 

(追記)

認知症予防の数値目標をめぐっては、その後関係者団体の働きかけ等もあり、取り止めの方向になったそうです。このこと自体は非常に重要でありかつ喜ばしいニュースですが、しかしなぜ数値目標が記述されようとしたのか、その過程は問われ続ける必要があります。加えてこの間、年金をめぐり金融庁の提出したペーパーが「炎上」し文字通り政府は「火消し」にかかっているわけですが、政府責任としてはそもそも説明責任を果たさねばならないわけでこれは選挙に影響を与えざるを得ないであろうということと、本記事との繋がりで言えば、この件は、いかなる老後のビジョンなり期待、希望なりを社会的に共有していくかという点に関わります。安心できる老後がそこにあるか、それを社会的な繋がりのもとでつくれているのか。社会制度のもとで未来への展望を描けないのであれば当然諸個人は自己責任下で自身の保護に走らざるを得ないわけで、社会の崩壊は必至です。そこに、いまスティグマを貼り付けられている人たちの場所はあるのか。

タイトルは今つけました。特に深い意味はないです。

前半戦

以下の文章は、僕の政治的スタンスを少なからず反映していることに留意されたい。ただし、僕がまた他方で、左派ポピュリズムへの不信を徹底して持っていることもまた、否定するつもりはない。

 

統一地方選の前半が終わった。維新が勝ったこと以外は目新しい結果はなかったように思う。テレビ報道によれば、実は維新支持の理由には都構想への支持があったのだという。こればっかりは読みが外れたが、そもそも維新が台頭した理由を思えば、住民投票を実行した経験それ自体が評価されているのかもしれない。ただこの点については全くわからないので、今後の調査を待ちたい。

いちおう僕は神奈川の人間なので、神奈川県知事選をはじめとする選挙で投票してきた。そして結果はご存知の通り、現職の黒岩知事の勝利に終わった。正直に言えば、対抗候補の岸氏には勝つ要素が見つからなかった。「神奈川Reborn」と言っていたのがやけに印象に残っていたが、いや神奈川一度死んだのかいっていうツッコミは最後まで残った。国政と地方政治を連結させる議論方法は共産党だからこそなのだろうか。黒岩が大きな支持を得たというよりも、岸が攻め手を欠いたまま選挙が終わったのが実際のところなのだと思う。

 

とはいえ、黒岩をめぐる政党状況はいささか混迷していた。次の2つのニュースは、その流れを端的に示している。ラフに要約すれば、立民が黒岩を推そうとしたが黒岩がそれを拒否、仕方なく立民は推薦を取り消した、ということになるだろう。

www.kanaloco.jp

www.nikkei.com

この展開にイライラした野党支持の人たちも多いとは思う。実際、この流れに関わらず黒岩が勝っていたとは思うのだけど、しかし立憲民主が「悪目立ち」した感は否めない。

ここで見られるのは、典型的な「党中央」と「地方支部」との乖離だった。ポール・ピアソンが言うところの、政治における「経路依存性」を想起する人も少なくはなかろう。なにせ、新しい政治を掲げ、民主党民進党のこれまでの足腰の悪さを払拭する文脈で華々しくデビューした左派ポピュリズム政党、それこそが立憲民主党だったのだから。事実、今に至る政党事情のなかで人材をはじめとする資源の足りない立憲民主党は、協力的な無党派市民をポピュリスティックな動員戦略をもって(一時的な)支持を得ることに成功し、二大政党制の一翼を担う政党へと一挙に上り詰めた。既存組織の論理でもない、左でも右でも上でもない、「下」から新たなる次元たる「前」へ。それこそが立憲民主党だった。

とすると、こうした市民たちを、立民が今いかにして動員できているかが問われることとなる。しかし選挙の際に最重要の拠点となるはずの地方で、既存制度や慣習、組織の論理が前面に出ることとなった。その結果、地方での足腰の悪さが、当の選挙時に悪目立ちし、立民の左派ポピュリズム政党としての支持を損なう構図があったのではないだろうか。

ここには立憲民主党の抱える困難がある。左派ポピュリズム政党として始動したにも関わらず、立憲民主党にはおそらく、地方支部の培ってきた論理を突き崩すだけの影響力が欠けていたのだろう。これは本部→地方への影響力のみでなく、本部の介入スピード(を可能にする資源を含む)が地方に及んでいるのかという話も含む。特に県知事選をめぐっては、黒岩支持よりも反岸(反共)の方が強かったがゆえに神奈川県連は黒岩にすり寄ったが、支持表明を一度してしまった手前岸を推すことはできず、しかしその前に岸を押せていたのならば話は変わっていたのかもしれない。党中央としては「野党共闘」をはじめとする枠で反カジノを掲げ岸を推すことは不可能ではなかったはずだ(もちろんその場合には、岸の「共産色」を薄める努力をするだろうが)。もちろん、これはあくまで推論に過ぎないのだけど。

 

問われるべきは、「立憲民主党がどれだけ今の政治状況に対し本気なのかどうか」といった規範的な論点よりもむしろ、「そのために必要な資源を立憲民主党(の党中央)がどれだけ持てているのだろうか」ということだと思う。統一地方選前半をめぐっては、ヘイト・スピーチを垂れ流していた候補者が発見されるといった事態が生じ、立民は事後的な対応に終始するなかでその「左派」性を疑われた。とはいえ、そもそも候補者選定にあたりどれだけの人員が立ち会えていたのかは疑問が残る。

 

このように考えると、立憲民主党のジレンマは、まさにそのポピュリズム性にあると言える。ポピュリズムを突き通せればそれに越したことはない。しかし、それが制度的に難しいがゆえに、立民はそのポピュリスティックな性格が損なわれている。華々しいデビューを果たした立民は、しかし二大政党制の一翼を担うにはあまりに必要とされる資源を欠いていた。その結果、あくまで二大政党制の一翼を担う大政党として振るまわざるをえない状況のなか既存組織の論理を撤廃することができず、むしろそうした論理をもつ組織に依存せざるをえないかたちで、選挙に臨まざるをえなかったというのが実際のところなのだろう(推論でしかないけど)。

これに関して立民を責めることはできないだろう。むしろ、不可避的な状況判断の蓄積が産んだ必然くらいに見るのが妥当な立場に思える。安倍政権妥当というミッションを掲げ左派/リベラルの期待を一身に背負って誕生した政党は、まさにその誕生経緯ゆえに困難に立たされている。仮に「立憲」的であるとしても、やはり「民主党」の影は暗く重いままというわけだ。

その意味で今回の結果は、言ってしまえば、立民を支持する/しうる無党派市民が、前選挙過程にどれだけコミットできていたかという話でもある。周知の通り、立憲民主党は連合の支持に依存するのでなく、そのデビューの際には前述の通り無党派市民の協力を動員していた面があった。専属人員は結局足りていない。ヘイト・スピーチをしていた候補者の選定や、党中央の政策理念に反する県知事候補への推薦の是非についても、あの新宿駅にいた群衆は実際にどの程度コミットしていたのだろうか?

もちろん、「お前ら情けねえな」みたいなことを言うつもりは全くない。何ならこの文章は全て自戒を込めている。それでもなおあえて言いたいのは、もちろん推測の域を出ないものの、これは立憲民主党が状況的に強いられてしまった制度的なジレンマなのだろうということだ。だからこそ、僕を含むあの場に集まった市民の行動が問われている。好きな言い方ではないけれど、その場限りの「消費者」としてコミットするだけでは、あの政党は持たない。僕個人としても、言いたいことは腐るほどある。お前ら新しい公共とか言ってる暇あんならもう一回「控除から手当へ」打ち出して子ども手当掲げろやとか、そういうことは結構思ったりもしている。だが政治的判断というのは、結局のところベストよりベターなのだし、また超超超基礎的な経済学の用語を援用すれば、短期のみならず長期をもふまえて物事を見据えるべきなのだ。

 

今回の統一地方選前半戦での立憲民主党の悪目立ちは否定できない。しかし後半はどうだろうか。時間は幸いにしてまだある。小選挙区制改革の際に問われたことは、政権交代のある政党政治だった。比例代表制の方が好ましいという論調は当時からあった。しかし舛添元都知事があれだけのバッシングを受けた以上、その哲学が消え切れてないこともまた事実なのだろう。立民への確固たる態度を求める一方で、その責務を市民が荷わねばならないという今の状況を、およそ20年前の知識人たちが見たら何と言うのだろうか。

所謂「透析中止の件」についての私見

これに関しては近々メモ程度にでも書かなければと思っていたのが、ここまで長引いてしまった。ひとえに怠惰ゆえである。というわけで、透析の件についての現時点での私見を簡単ながら述べてみたい。

 

まず筆者がいかにこの「問題」を特定しようとしているのかを示し、特に「インフォームド・コンセント」の問題として論じることを示したい。次に、こうした情報提供のありようは医療サイドからの一方通行によるものでない、「共に決定する」過程それ自体に焦点が当てられる必要があることを主張する。そして、医療サイドの問題はありつつも、こうした過程分析のための素材が揃っていないことを述べたい。そして最後に、残された規範をめぐる問いについて言及することにしたい。

 

1、はじめに

東京都福生市羽村市、瑞穂町で構成される福生病院組合が運営する「公立福生病院」(松山健院長)で昨年8月、外科医(50)が都内の腎臓病患者の女性(当時44歳)に対して人工透析治療をやめる選択肢を示し、透析治療中止を選んだ女性が1週間後に死亡した。毎日新聞の取材で判明した。病院によると、他に30代と55歳の男性患者が治療を中止し、男性(55)の死亡が確認された。患者の状態が極めて不良の時などに限って治療中止を容認する日本透析医学会のガイドラインから逸脱し、病院を監督する都は6日、医療法に基づき立ち入り検査した。(『毎日新聞』2019年3月7日朝刊より一部抜粋)

 

早速引用したこれは毎日新聞によるスクープで、内容は読んでの通りである。報道によれば、女性は「透析は、もういや」として中止を選択、また外科医は「透析治療を受けない権利を患者に認めるべきだ」「十分な意思確認がないまま透析治療が導入され、無益で偏った延命措置で患者が苦しんでいる。治療を受けない権利を認めるべきだ」と話しており(『毎日新聞』同上)、一見、透析治療を受ける女性の意思に外科医が柔軟に対応したように見える。

 

しかし毎日新聞のこの報道は瞬く間に「炎上」した。大まかな理由は3つある。一つ目は、この決定が日本透析医学会の2014年ガイドラインに反しているためだ。ここでは透析治療中止基準について「患者の全身状態が極めて不良」「患者の生命を損なう」場合に限定しているようで、本透析医会の宍戸寛治・専務理事は「(患者の)自殺を誘導している。医師の倫理に反し、医療とは無関係な行為だ」と批判していた(『毎日新聞』同上)。「終末期患者でなかった」というのもこうした議論に該当すると言って良い。二つ目は、透析中止について家族の理解を得れなかったということだ。この点について、女性の夫が毎日新聞に多くコメントをしているので参照されたい。そして三つ目は、患者当人の意思変化が透析中止過程で見られたことにある。この、2つ目と3つ目の点について見るべきは、毎日新聞の以下の報道である。

 

15日夕。女性の苦痛が増した。夫によると、女性は「(透析中止を)撤回できるなら、撤回したいな」と明かした。夫は外科医に「透析できるようにしてください」と頼んだ。外科医によると、女性は「こんなに苦しいのであれば、透析をまたしようかな」と数回話した。外科医は「するなら『したい』と言ってください。逆に、苦しいのが取れればいいの?」と聞き返し、「苦しいのが取れればいい」と言う女性に鎮静剤を注入。女性は16日午後5時11分、死亡した。(『毎日新聞』2019年3月7日朝刊より一部抜粋)

 

この記述からも明らかなように、透析中止過程で女性の意思は部分的に変化している。これに対し家族は透析再会を要請したが、医師と女性とのコミュニケーションを経て、透析中止継続が決定されている。これらの点に加え、公立福生病院が透析の非導入を他患者に対し行っていたこと、倫理委員会を開いていなかったこと、他選択肢として「腹膜透析」を示さなかったこと(『毎日新聞39日朝刊、なお後述するがこれは問題だと考えている)等が問題視されている。なお、一部ではこうした決定を長谷川豊氏の「透析患者は殺せ」論や昨今の「終末期医療に金がかかる」論と符合するものであり医師の見識が問われるといった声もあるが、そこの因果関係は一切明らかになっておらず、「透析中止の権利」を言説として捉えれば、むしろ医療延命主義への批判として好意的に受け取ることもできることもあり、当該医師及び病院の方針についての調査は報道関係者に任せるとして、ここでは特に考えないことにしたい。

 

さて、一つ目の議論については、一律的な患者への応対を迫りかねないものだし、ガイドラインに反しているからといって透析中止を示すべきということにはならない。むしろ問われるのは、上述の「患者の意思を誘導しているのではないか」といった議論である。二つ目と三つ目の議論が、こうした点について示唆的である。これらは医師と患者(及び家族)との対話のなかで医療方針を決定していくという、一般に言う「インフォームド・コンセント」の問題を含んでいる。次に、インフォームド・コンセントが持ちうる問題とその乗り越え方について見てみよう。

 

 

2. インフォームド・コンセント科学技術社会論的解釈(?)

周知の通り、インフォームド・コンセントは「説明を果たした上での同意」を意味する。ただし説明を「果たす側」と「果たされる側」とに二分される以上、この用語は科学技術社会論で言われるところの「欠如モデル」に依拠している面がある。欠如モデルとは、大まかに言えば、「あなたは知識が“欠如”している、だから専門家がそれを埋めますよ」というものだ。これに対する科学技術社会論の大まかな解答は、あくまで欠如モデルに依らずに、いかにして民主主義的な意思決定への参加が市民には可能か、という論立てをすることにある。すなわち、市民には学習能力があり、また意思決定への参加の権利及び能力があり、実際に参加すべきであるがゆえにそのための場をいかにして設計していくかという点に議論を開いていく必要があるといことだ。以下では、こうした科学技術社会論の視点を、可能な限り踏襲してみたい。

 

さて、こうした観点からインフォームド・コンセントをいかに問い直せるだろうか。まず、説明を「果たす側」と「果たされる側」という二分法は少なからず修正される必要があろう。そもそも医療方針の決定が患者の身体のありようにかかわるものである以上、求められるのは、意思決定過程それ自体の共有、いわば「共に決めること」である。とすれば医療サイドは、情報レベルでの十全な説明責任が求められるのはもちろんのこと、患者が意思決定に参加できるための基礎的条件を整えることも求められる。また、医療サイドが患者とのコミュニケーション過程で抑圧的に働かないことも重要となる。さらに患者の意思が発せられる場の多元化も重要だろう。次に重要なのが、そもそも患者がいかなる主体として捉えられているかという点である。そもそも毎日新聞の報道では、女性は透析中止の意思を示したが、正常時の判断をヨリ信頼して透析中止を継続したという流れになっている。しかし、一般的に言っても意思は往々にして変容するものである。

 

加えて、認知症者や、また知的/精神障害者といった、いわゆる「正常な判断ができない」者としてしばしば社会からまなざされる人々は、こうした医療サイドの理屈では、そもそも「正常な判断」ができないがゆえに意思決定への参加を阻まれる恐れがある。特に透析中止といったケースについては、容態に伴う判断基準の急変といった事態が生じうるため、この場合、患者は事態が急激であるがゆえに新たな関係を築くことが難しいことが予想される。よって、透析中止決定以前にいかなる関係性を医療及び介護サイドと築けているかが、問われるべきポイントとなろう。

 

このように考えると、一般に「インフォームド・コンセント」と言われる合意形成のありようは、つまるところ意思決定にかかわる過程それ自体であると考えることができる。よって、報道のなかで問われるべきは、透析中止の是非を巡る議論と共に、それをめぐる過程そのものである。以下では、スクープを報じた毎日新聞の報道に焦点を当てて、この過程分析がどのように行われているかについて見てみたい。

 

 

3. 過程分析への注目とその現時点での限界

といっても、それは無理だ。なにせ、毎日新聞はその点についてはほとんどきちんと報道しきれていない。まぁ、現在進行形で頑張って裏を取っているのだろうし、それを批判する意図は毛頭ない。とはいえ、過程分析にあたり重要な材料はいくつかある。決定的なのは、次の報道である。

 

公立福生病院(東京都福生市)で外科医(50)から人工透析治療をやめる選択肢を提示された女性(当時44歳)が死亡した問題で、女性に対して「腹膜透析」という別の治療法の説明はなく、「血液透析」をやめるか続けるかという二つの選択肢しか示されなかった。透析治療に詳しい関係者は「医療を受ける患者の権利が奪われている」と指摘している。(『毎日新聞』同上)

 

前述したこの報道、すなわち医療サイドが患者に対し代替策を示さなかったという点については、大いに批判されるべきだと考える。というのも、「共に決める」過程のなかで代替策が提示されていなかったということは、患者の参加能力それ自体を損なう行為だからである。もちろん、この女性が腹膜透析を提示されたとしてもそれを飲まなかった可能性は大いにある。しかし、情報が提示されていたかされていなかったかの違いは大きい。アマルティア・センのよく知られた議論を援用すれば、患者が損なわれたのは、capabilitiy(潜在能力)であると判断できる。もしその機会が実効的なかたちで提示されれば選択できたかもしれないが、その機会が閉ざされていたがゆえに、患者には選択の余地さえ与えられていなかった。これは「共に決める」ことの条件を覆すものである。

 

さらに、家族の同意を得られなかったことも問題視されるべきだろう。たとえば同月12日の毎日新聞の報道によれば、長男も透析中止の継続を知らず、後悔が残っているという。もちろん、どの範囲に自身の容体に関する決定を知らせるかというのは患者当人が最終的には決定することである。しかし生はその人だけでなく、良くも悪くも「他人ありき」であって、人は一人で死ぬことはできない(cf. 西谷修『不死のワンダーランド』2002、青土社)。加えて、これは非導入のケースであるが、「患者の家族から『死ななくて済む方法があるのに、なぜ死を選ぶのか』という疑問が出た場合には、患者本人に家族を説得してもらった」という報道もあるなど、患者本人に説明を押し付けていた恐れのある面も見受けられる(『毎日新聞』2019年3月8日朝刊)。仮に医者と患者の対話的過程を経た結論であったとしても、その帰結を患者一人に委ねるのは、患者当人にとって「自分(たち)の下した決定なのだから」という、いわば宿命づけられた決定を押し付けるものとなりかねない。また、欠如モデルに従わないとしても、市民の専門知欠如は事実の問題だし、こうした点について、家族を含めた、共に生きる人との意思決定のありようについては突き詰めて考えられる必要があったはずだ。

 

おそらく決定的なのは、「都は、女性が何度も治療中止を撤回したいと訴えたにもかかわらず、外科医は治療再開の要請を聞き入れなかったと認定」し、苦痛のため患者が透析中止という従来の決定の変更を提案したにもかかわらず「外科医は治療を実施せず、最終的に女性との意思疎通が難しくなった際、夫(51)も治療再開を外科医に要請したが、聞き入れ」なかったという報道だろう(『毎日新聞』3月20日朝刊)。報道を見る限り、毎日新聞はまず問題化させた上で東京都という資源をもつセクターを動かしたと見ることができようが、まぁそれはこの際どうでもいい。この調査結果から受け取れるのは、福生病院がしかるべき説明責任を果たしていなかったという疑念が深まったということである。

 

とはいえ管見の限り、過程分析についてはこれらの報道が示すのみであり、仔細と呼べるほどの材料は揃っていない。少なくとも現時点では、医療サイドの決定に関し問題である/問題でないといった立場表明をすることは難しいと言わざるを得ない。ここまで示したのはあくまで問題発見の参照となりうる論点のみであって、事細かな過程分析として十分とは言えない。今後も調査は継続すると思われるので、それを待つ他ないのだろう。

 

 

4. この「問題」をいかに考えるべきか

さて、ここまで透析中止をめぐる毎日新聞の報道を参照に、主に科学技術社会論の知見を少しばかり借りながら、考えてきた。その上で、規範論と共に過程それ自体に注目すべきであるが、いくつかの論点は提示されておりそのうちのいくつかはあまりに問題含みであるとしても、やはり肝心の過程についての報道が欠けている面があるということについて触れてきた。また、現時点で過程分析を経ずして拙速な立場表明を行うことの危険についても示唆できたのではないかと思う。この透析中止の件は昨今の死生学的な議論も含み得るものであり、単なる非難が医療延命主義を助長させかねない恐れをもつためである。都の調査を含め、仔細な検討を経た後に、立場表明が正当なものとなるのは間違いない。

 

最後に考えたいのは、残された規範をめぐる問題である。もちろんこの点についても過程分析を経ないことには始まらない面があるが、しかし透析中止をめぐっては、確かに長谷川豊的な言説が事実としてある以上、目を背けるわけにもいかない。さらに財政危機言説が終末期医療を抑制する方向へと舵を取るのも最新のトレンドとなっている。これらの議論が規範的に許容しうるものでないことは論を待たないが、ではいかにして規範的に捉えればいいのだろうかという問題は残る。この点について、毎日新聞で連載をしている宮本太郎氏の議論が重要なポイントを提示している。以下、引用しよう。

 

私が恐れるのは、当事者への同情を装い、最後は苦しみたくないという当然の感情につけこみ、「生きるに値しない身体」というレッテル貼りが広がることだ。ピンピン生きてコロリと逝くことを「PPK」などと呼ぶ。医療経済学者の二木立氏はこれを差別的表現だと言うが、たしかにそうだ。これから私たちの多くは、ピンピンとコロリの間の長い時間を生きる。その時間を少しでも輝かせ苦しみを軽減することこそ、社会と医療の本来の課題ではないか。(『毎日新聞2019323日朝刊)

 

宮本氏の議論はシンプルであり、それは次の2点に集約される。それは、①人は誰しも「余計者」として扱われるべきではない、そして、②人は誰しもイキイキと生きることが保障されるべきである、ということである。当然といえば当然だが、しかしこの2点は現代に至るまで社会福祉学の中核的な問いである。②について、医療サイドは的確な情報提供をしきれていたのだろうか。そして、①は社会的な問いである。福生病院にその意図があったかどうかはわからないし決めつけることも現時点では不可能であるが、「余計者」をめぐる問いは今の日本では無視しえない問いだろう。貧困家庭の子どもは趣味を諦めるべきと言われ、少しでも「外れた」行動をした者に左派/リベラルが無自覚的な医療モデルをこじらせてサイコパスの烙印を押し、生活困窮者には自己責任のレッテルと責任意識が押し付けられ、国家財政の名の下に分配上の不公正が生じる。

 

皆で「共に決める」ことは一般的な感覚から考えて難しいだろう。しかしその理想を擁護することを諦める理由はない。そのための条件として過程分析があるとしても、実は規範的にも、透析中止の件は人の生の経験それ自体をいかにして捉えるかという問題を残している。そうであるがゆえに、スクープを報じ問題化させた毎日新聞には一定の分析と結論の提示を求めたいと思うのは、マジョリティの傲慢なのだろうか。

 

なんでもない話

やるべきことを一通り終え、いま僕はかなり自由な時間を過ごしている。嘘だ。それなりに忙しく、その合間合間で、結局僕は好きな本を好きなように読んでいる。

個人的には、買ったタイミングが重なり、グラットン/スコット『ライフ・シフト』と磯部涼『ルポ川崎』を同時に読んだ時にクラクラする思いがした。なるほど「人生100年」言説は事実日本にも取り入れられており、働き方そのものの再編が求められている。ただしそれが一部の人のお気楽な道楽になってしまっては話にならない。格差は拡大し、東京と横浜という大都市に挟まれた場所では、そこが日本であることを疑ってしまうような現実が日常となっている。

ヴォーゲル『日本経済のマーケットデザイン』(原著ではmarketcraftらしい)、マクミラン『市場を創る』、そして言わずと知れた『貧乏人の経済学』は、あえて引きつけていえば、いかにして「ご当地モデル」をつくっていくかという話でもある。市場が適切な働きをするよう促すことは避けるべきではない。しかし、市場をいかなる方向につくっていくか、そこに規範的な要素をいかに取り入れていくかは、政府の介入あってこそという面がある。とはいえ、政治でしばしば見られる「べき」論は、往々にして現場の状況とは無関係に交わされる。いかにしてそのニーズを読み取り、適切な支援をしていくべきか。

個人的には、地方分権が改めて求められているような気がしてならない。

 

 

現場の声というのは実は結構ややこしかったりする。分かりやすい例で言えば、賃金がある。

基本的には、拘束時間に対する所得で賃金は見なくてはならないため、時給それ自体は構成要素の一部に過ぎない。再賃上げには僕も賛成なのだけれど、そのことが労働時間短縮戦略と合わさったら、「これだけの時給なのだから」言説と交わって、むしろマイナスになりうる。ケンウォシーの発見の偉大さは、最賃の額よりも労働時間の方が貧困改善にとっては重要であるということにあると思っている。雇用時間の確保が何よりもまず問われるべきなのだ。

それを如実に表すのは、恐らくは近年見られる残業時間削減方針だろう。実はこれは、ホワイトな企業にとっては微妙な効果をもたらしうる。ホワイトな企業は残業代が適切に支払われるので、単純な労働時間削減政策はむしろ所得上昇のための戦略的な残業を減らし、結果として労働インセンティブを損ないうるためだ(もっとも日本では、サビ残をはじめとして、労働時間が給与に反映されてこなかった経緯がある。残業時間を減らすには当然の背景があるし、ケンウォシーの射程にも限界はある)。つまり、「残業代を払え」もまた重要となる。

どうしたって市場のお話なので、労働者の生産性向上インセンティブを、いかに真っ当な前提をもって高めるかが論点になる。ただ、雇用時間の確保と、残業代支払え言説は、脱商品化を唱える論者からすれば(繰り返せば、そこには確かな背景がある)受け入れにくいとは思う。そして、(言説)政治戦略としては、短期ベースでいかに人々をまとめるかって論点がどうしても欠かせないので、左派リベラルに不人気な「第三の道」的言説を中軸に吸えるのは難しいし、好ましくもない。ここが悩みどころで、結果として、民間に頼らざるを得ない状況が出てくる。

 

「べき」論は政治の世界ではしばしば単調なメッセージとなり、理念的な対立として顕在化する。しばしば「このイシューは大事なのだから、政争の具にするな」といった声が出てくるが、この指摘は一面では正しい。でも、調達すべき合意を調達せぬまま政治から遠ざけてしまえば、正当化のプロセスが曖昧化してしまう。

一方で、全国的な合意形成もまた難しい。小選挙区制だからと単純化するつもりはないが、特に近年はポピュリズム・ブームで(日本も例外ではない)、ハタから見れば分極化のきらいがある。長期的な展望を政治がいまいち描けないなかで、不平等は目の前にあるものとなっている。

地方分権が求められる所以である。ネオリベ的な国家の役割を安価に肩代わりさせるためでない、地方により権限とお金を委ねていくタイプの地方分権だ。地方には様々な人や団体があって、独自の試みを展開しているから、行政といかに連携していくかも重要だろう。民間のアイディアみたいな話と引き付ければ、公的支援を土台とした準市場的なやり方には希望がある。とすれば、理念的な足場としての普遍主義は徹底すべきだろう(もちろん、地方分権、準市場、普遍主義というのは、『世界』での大沢真理武川正吾・宮本太郎対談の、宮本氏の発言を参照している)。

しかし問題は、いかにして普遍主義的な足場をつくっていくかだ。政策リストを掲げることは重要だが、たとえば子ども手当は、まさにその普遍主義的な性格が争点化し、最終的には所得制限をもつ児童手当へと「退行」した。いわゆる「自己責任論」から財政逼迫言説に至るまで、社会保障支出を削減するための理由づけには多大な項目がある。しかしその足場が無ければ、国家の役割はかなりのほど疑われる。

 

最近、介護に携わる人たちのお話を聞く機会が多いのだけど、しばしば「自立支援」という言葉を耳にする。介護保険法にそう書かれてあるからなのだ。大学院でお世話になっている先生は、公務員には憲法遵守義務があるため自身がやっていることの説明が楽(「憲法に書いてありますから」)なことが多いという公務員の人の話をしばしばしていた。

まぁ、人によりけりなのだろう。しかし、制度に埋め込まれた理念というのは、仮にそれが綺麗事であったてしても、アクターを拘束する。そしてそれは、綺麗事であるべきなのだ。ドゥルシラ・コーネルなら、それを「理想」と言ったかもしれないけれど。

ハロウェイ

その日はたまたま土曜日で、勤務地も六本木だった。室内にいた関係からまるで実感はなかったのだけど、外に出たら、そこには全く異なる光景があった。

そう、ハロウィンだ。となれば取るべき行動はただ一つ。僕はバイトを終え、たまたま居合わせた同年代の3人とともに、パリピの街、渋谷に向かった。

 

ハロウィンはトリック・オア・トリート。お菓子をあげなければ、子どもはイタズラをする。トラックを横転させたのを筆頭にその「素行の悪さ」が騒がれているが、なるほどイマドキの若いもんは、経済成長の恩恵をそんなに受けているわけではない。気づけばバブルは崩壊していて、生活保障システムの機能不全が明らかになるなかで、政治も「ぶっ壊す」だけぶっ壊してその先の展望がいまいち見えない。少子高齢化、雇用の不安定化、国際関係はニュースで日々緊張が煽られて、その割に「ゆとり」だ何だと文句を言われる。

こういう風に言うと、我々は「お菓子」をまるでもらっていないように思える。ただ、それでもって必ず終電を過ぎたパリピ・パラダイス・デイで素行の悪さを見せつけねばならないというわけでは、当然無い。社会運動論で言うところの集合行動論よろしく、不安をぶつけて集まるみたいな議論ではおさまりはつかない(もちろん集合行動論はこんなに雑な話ではない、念のため)。

では資源動員論的な発想ならどうだろう。社会運動論のなかで資源動員論は、集合行動論へのアンチテーゼとして生まれた。運動の参加者は単に社会不満を拗らせて後先無視して集ってるのではなく、実は合理的・戦略的なんだよというのがその基本的なメッセージだと言って、そんなに間違いはないだろう。この場合、適切に「資源」を「動員」する戦略こそが問われることになるのだけど、ウェイなハロウィン、通称ハロウェイにおいては、僕の知る限り、そういう戦略を展開する参加者は誰もいない。なにせみんな好き勝手に集っているだけだからだ。

 

こうなってしまうと、ああした集い方についての説明は、やや工夫が必要になってくる。管見の限り、主流な捉え方は「民度」によるものだ。かねてからハロウェイにおいては翌朝のポイ捨ての多さに代表されるマナーの悪さに注目が集まっていたが、それはどのような心理でなされるのかということだ。これは更に2つの流れに分けられる。一つは「最近の若者はやばい」という世代で区切ったもの、もう一つは「そもそも日本人なんてこんなもの」というものだ。一つ目はよく言われる議論だが、あのパリピたちのなかに、実は「若い」かどうか微妙な人もいることを説明しきれない。また、SNS等の情報にかんする環境変容は確かにあるわけで、本質的にそんな世代間の違いはないんじゃないのという批判もありうる。後者は、「日本人はそもそも空気を読むだけで」といったかたちの議論だが、大多数の「日本人」はこういうことをしない。そもそも渋谷型ハロウェイそのものが非常に都会的なイベントでもある。

これに対し、環境に注目した議論も、少数ながらある。「然るべき環境が揃っていないのだから、当然こうなる」といったものだ。具体的には、ゴミ箱の不足がある。渋谷駅周辺でいえば、交番前あたり(以前、喫煙所があったらへん)に特設のゴミ箱はあったけれど、それ以外には目新しいものは見当たらなかった。しかしパリピ達は酒を飲むし、何ならそれゆえのハロウェイだ。そしてコスプレをすればカバンは邪魔になる(ゴミ袋を持ち歩くミイラがどこにいる?)。このような、環境整備の不十分が、ああした結果を生んだというのが、この議論である。この場合は、行政の対応が問題となる。

 

さて、どれが正しいのか正しくないのかは、ぶっちゃけ分からない。ただし「民度」アプローチについて言えば、その「民度」とやらには、いかに訴えかければいいのかという問題が残る。なにせハロウェイに目に見える主催者ないない。言ってしまえば、このアプローチは、参加者一人ひとりの倫理観みたいなところに頼るしかないが、それゆえに、あまりにも心許ないのだ。人は時によっちゃフリーライダーになるというのが経済学のメッセージだということを忘れてはならない。

そもそも、「民度」とやらに訴えかけるアプローチは、政治的バイアスが関わってくるので扱いづらいし、場合によっては解決を遅らせる。例えば「日本人は本来は静かな民族でマナーを守り」的なことを言えば左派は対抗するだろうし、実際に「日本人」なるものの本質を定めて規制を行うのは規範的にも肯定されにくいだろう。世代間対立を過度に煽るのもいただけない。何より、若者にも踊る権利くらいはある。さらに議論が規範をめぐり紛糾すれば合意は遅れ、それは対応の遅れへと繋がる恐れもある。

 

というわけで、有効な手立ては行政の側にのみあるというのが僕の見立てだ。これには非常にざっくり分けて、「規制」と「支援」の2つの方向がある(なおこれは武川正吾さんを参照しつつ、しかしかなり違う用法で使っている)。

順に説明する。「規制」は簡単で、「ハロウェイはやばい。やばいからやめさせる。パリピむり」というものだ。具体例なのかは分からないけれど、大方、その日暴れた奴を一斉検挙していく感じだろう。ここまで大仰でなくとも、行動の幅を狭めるやり方はいくらでもある。

もう一つは「支援」で、これは「ハロウィンはもう文化。文化だけど、さすがにこれは危ない。というわけで、安全に終わるように環境を整えよう」というものだ。たとえばゴミ箱の大量設置は、各企業にとってそこまで魅力的な策ではない。ゴミの処理を受け入れるコストがかかるし、何より「隣の店がそれをやってくれたら自分の店の前に捨てられうるゴミはそっちに集中する」という計算のもと、合理的に自分はゴミ箱を置かないという発想に至るかもしれない。そこで行政がイニシアチブを取り、ゴミ箱を多く設置したり、また商店街(といった分かりやすいくくりなのか、それとも各店に対してなのかは置くとして)に対してゴミ箱設置命令を出したりとかすることが考えられる。

規制と支援の違いは、「暴徒」とみなすか「お祭り」とみなすかに対応すると思う。前者であれば規制する必要がある。何せ暴徒だし、何ならトラックを転倒させている。後者ならば、むしろ円滑に回すべき対象とみなされ、サポート策が取られる。この場合は行政の対応力不足が問題となる。何せこいつらはトラックをひっくり返している。ただし祭りの主催者はいないので、環境整備を全力でやる必要が出てくる。

この対応の違いは、現場の積み重ねで生まれる。たとえば、ロフト手前エリアの道は一通なのだけど、24時になる前くらいには、そこでサウンド・システムを大量に取り付けた車が停車し、爆音でレペゼン地球を流していた。爆音があれば踊るのがパリピである。そして一通はさらに塞がれ、クラクションが鳴る。こんなのは警察が秒で十数人単位で駆けつけて今すぐにでも爆音やめさせてパリピを歩道に戻し車を前進させなければならない。しかし管見のの限りでは、警察はあくまでスピーカーを用いた「警告」をしただけだった。僕がそこから離れた後に警察が駆けつけていたのかもしれないが、それにしても遅すぎる(なお僕はそのパリピ輪の中には一切混じっていない、念のため)。しかしこのような規制の機能不全は、結果としてハロウェイの暴徒化を許容し、事後的に「規制」言説を強めた。「あいつらはやばい」という言説だ。これは現場での規制の弱さと戦略ミスゆえだが、それ故にハロウェイは、「もっと適切な支援のあり方があるよね」といった支援的な対象でない、「暴徒」を押さえつける規制の対象とされる。

加えて、そもそも行政の側にハロウェイを支援するメリットもそんなにはない。何せゴミは捨てるわ痴漢も発生するわトラックを横転させるわと、普通に考えてロクでもないことが起こっている。わざわざ「支援」してやる義理はないと考えるのが普通だろう。よほどのことがない限り、政治は危ない橋を渡らない。

 

まとめる気はない。ここまで書いたのは、基本的には「なんかこんなことふんわりおもいました」くらいのことに過ぎないからだ。僕自身は、ああいうおちゃらけた空間は好きだけれど、痴漢も発生し、トラック横転、一通は塞がれてゴミは大量に捨てられるなど、全肯定する気になど、とてもなれない。一方で、あえて嫌な言い方をすれば、行政の側がうまいことハロウェイを「体制内化」できるんじゃないのかねとか思っているのも事実だ。

ただここまで書いてきたように、僕はこの問題について、あえて言えば「集合行動論」的なアプローチは取っていない。どちらかというと環境整備にコミットする行政、とりわけ、どのような言説がどのような過程を経て主流になり現実の規制ないし支援に繋がっていくのかに注目している。なので、サッカー日本代表のアレコレも含めたこの手の話について、「ネタ」が揃うのもしばらく先ではないかと考えている。ここで言いたいのは、面白い文化批評みたいなものは今後いくつも出てくるだろうけれど、それがどの程度きちんとした実証モノなのかといえば、それはまた違うのだろうということだ(その上で、文化批評的なものにはそれ特有の重要な意義があることも強調しておきたい)。

思い出すのは、学部4年の終わりの「卒論お疲れ様飲み会」だ。あの場に集まった奴らは、実はほとんど全てが、卒論を真面目にやっていなかった。なら何でそんな飲み会をしたかといえば、ただ単に、飲み会をする口実が欲しかったからに過ぎない。でも、ハロウェイもW杯も、基本は似たところなのだと、勝手に思っているし、それはそんなに問題ではないとも思っている。

ストレスが溜まったわけでもない。飲みたいだけなのだ。騒ぎたいだけなのだ。ただ、それには一定のモラルが求められる。僕はどうしても良心に訴えかける発想がストンとこないので、環境を整える方向や、その内部でどんな対立軸があるのかとか、そういうことばかりを考えてしまう。

 

(追記)

今回は議論の単純化のために「支援」と「規制」を対立的に使ったけれど、もちろんそんなことはないということは強調しておきたい。例えばここでいう「支援」に取り組む場合、トラックを転倒させたり多発する痴漢行為に対して十分な規制を行う必要が生じる。逆に、こうした規制を怠ったまま支援するとなれば、それは大問題だ。行政がこのような(集団的な)暴力行為を是認しているに等しいからだ。このように、支援と規制は別ベクトルの議論であって、それらをいかに組み合わせるかが問われるべき事柄となる。

沖縄県知事選について

沖縄県知事選が終わった。結果は玉城デニー氏の勝利で、自公が気合い入れまくって推薦していた佐喜真淳氏は敗北した。あれだけの選挙運動を展開したにもかかわらず、創価学会員の4人に1人が玉城に入れたという噂もあるようで(自分で調べたわけではないので真偽のほどは知らん)、自民党総裁選で石破茂が予想以上に多くの党員票を獲得し善戦したことを合わせると、安倍政権は空中戦に注力する一方で、その足元からほころびが見え隠れしているように思える。少なくとも、この2つの結果は、次の参院選で何かしらの影響を及ぼすだろう。

この選挙で2つ、気になったことがある。一つは佐喜真について、もう一つは玉城についてだ。そしてお気づきの通り、面倒だから敬称的なものは全て省くことにする。

1. 佐喜真について気になること--携帯料金は減らせる?

まず最初に気になったのは、佐喜真の公約だ。念のため言っておくと、僕は関東圏に在住しており、そのこともあって両者の政策パンフレットやチラシ等の物品は持っていない。よって、僕が主に参照するのはウェブサイトの情報となる。そして、これが佐喜真のウェブサイトだ。

atsushi-sakima.jp

まぁなんていうか、わりとよくある政治家のウェブサイトを、ちょっとよくした感じのつくりだ。多分、ケータイの方が見やすいと思う。

気になったのは政策だ。背景が赤でなかなかごついけれど、とりあえず色々なことを言っている。本当に色々なことを言っていて、たとえば「女性活躍」のところの「うない会議」とかは、一見リベラルの主張にも見えてしまう。ただし、やりたいことリストの羅列のような書き方でもあるので、ポイントがどこなのか、どういう理念に基づいてどういう優先順位をつけているのかが、全く見えてこない。加えて、具体的なこともほとんど書いていない(基地のところは、さすがにそこそこ書いてはいるけれど)。

そんななかで一際注目を浴びたのが、携帯料金4割削減を求めるという公約だ。「求める」のか「削減します」なのかが最後までよく分からなかったけれど、キャッチーな政策であることに違いはないし、実際に携帯料金は高い。格安SIMを使えばいいじゃないかという議論もあるみたいだけれど、それだと情報格差とかが問題になってくるので、一律的な取り組みに意味がないわけではない。ただこの公約で同時に注目されたのは、「それ、本当にできるの?」ということだった。

結論から言うと、できなくはない。多分。

琉球新報』が報じていたように、引き下げを「求める」ことはできる。ただし、事業者側がそれに従わなければならないというわけではないので、強制力を持たせるためには、そのようにする法律を作るしかない。とすると、そんな法律が作れるかどうかというのが焦点になる。ここで注目したいのは、もともと携帯料金の削減は、官房長官菅義偉が唱えていた政策だということだ。さらっと検索した限りでは、8月の段階で菅はこの問題に言及しており、その際、公取委との連携で何とかしようと考えていたらしい。「国民の財産である公共の電波を利用して」というフレーミングを用いており、全国一律での料金引き下げを目論んでいたことがうかがえる。そしてその菅は、沖縄県知事選では積極的に沖縄に入っていたのだ。

つまり、佐喜真は携帯料金引き下げを、決してできないわけではなかったのだ。ようは中央政府との連携関係を密にしつつ、菅の語る政策を地域・年代両単位で部分的に導入しようという、つまりは国策の試験的な導入所として沖縄を置くというかたちで、公約を果たすということだ。

ただしこの場合、当然ながら、中央政府との密な連携が前提となるため、では基地はどうなるのか、という問題が出てくる。もし基地反対の姿勢を出すのであれば、佐喜真には沖縄を試験的導入所として置く代わりに基地については妥協しないという交渉が求められることになる。ただ、そもそも支持層を保守勢力によっており、かつ中央地方関係で見ても、悲しいかな、交渉力を奪われてきたからこそ翁長全沖縄県知事が求められた面があるのであって、その意味で佐喜真は、基地問題か携帯問題かのどちらかを「捨てる」ことが、公約段階で迫られていた。

なお携帯料金については、「実質的削減」とか言って、携帯を使っている若者(世帯)向けに手当やバウチャーを給付するという手もあった。ただしどちらにせよ財源負担はどうなるのかという問題は残る。この点についての佐喜真からの解答を僕は知らないので、そこについては触れないことにする。

2. 玉城について気になること--イデオロギーよりアイデンティティ

さて、次は玉城について。玉城については「翁長前知事の意思を継ぐ」というかたちで、主に基地問題への姿勢がクローズアップされてきた面があるけれど、ここではあえて生活保障について見てみたい。

tamakidenny2018.com

ウェブサイトは典型的なペライチ仕様。これ、いつまで流行るのだろうか。まぁ選挙みたいな特設ページが求められるタイミングでは、シンプルなつくりでうってつけなのかもしれない。

佐喜真と対照的に、玉城は政策をかなり絞るかわりに、ポイントを見えやすくしている。これにかんしては、どちらが良い悪いというのではなく、おそらくは「どっちもやれ」という話なのだろう。その意味で、玉城の掲げる政策の総体が見えにくいのは、いささか残念でもある。

とはいえポイントが絞られている分、注目すべき箇所もわかる。気になるのは、玉城が公約の第一に「社会的投資戦略」を掲げていることだ。僕はステキな性格をしているので、テクニカルタームを入れるだけ入れて「人への投資は、無駄ではない、戦略なのです」みたいな、その言葉を明確に回収する説明がないのは、単にタームの無駄遣いなんじゃないのとか、決してツッコんだりはしない。もちろん、一部の層には社会的投資戦略は経済合理性に福祉を服従させかねないとか何とかで評判が悪いとか、そういうことも絶対に言わない。

が、社会的投資戦略それ自体は重要だ。論者としてよく知られるのはエスピン=アンデルセンだけど、文字通り、福祉を「社会的」な「投資」の「戦略」として捉えようということだ。福祉の充実と経済の成長は、しばしばトレード・オフの関係として語られていた。福祉を充実させすぎると頑張るインセンティブがなくなるみたいな話だ。しかし社会的投資戦略は、福祉の充実を成長の妨げとしてでなく、社会の活力と成長をもたらす「戦略」として捉えるところにポイントがある。

そう、ここで問題になっているのは、社会の活力を支える土台なのだ。だからこそ玉城の政策では、「新時代沖縄はみんなでつくりあげるもの」「『ウチナーンチュ』という一つのアイデンティティ」「沖縄にしかない価値」そして「誇りある歴史」を掲げる。そしてこれらは、生活保障から基地問題解決まで、一本の線で繋がっている。生活保障の充実は沖縄の人びとの活力を最大限に引き出す。そのことによって、徹頭徹尾、沖縄の人びとから始まる政策構想を提示する。翁長前県知事は、保革対立(イデオロギー)を超え、「オール沖縄」の流れのなかで、「本土」の押し付けに対抗的な沖縄アイデンティティを訴え、勝利し、最後までその姿勢を貫いた。沖縄という土台から始め、その沖縄という土台の活力を支えるという意味で、玉城の政策は、実は翁長の時からの一貫性を、その政策構想のなかで体現していた。

この意味で、玉城があくまで政党からの「推薦」でなく「支援」のかたちで戦う一方で、佐喜真が自公からの推薦をうけ、しかも「選挙の顔」としても強い小泉進次郎を(たしか)2度も、しかも菅義偉とセットで派遣したのは、対立構図として興味深い。あえて玉城のフレーミングに乗っかれば、まさに今回の県知事選は、「イデオロギー」に対抗する「アイデンティティ」の政治だったのだ。

3. おわりに

今回の県知事選では、両候補とも生活保障についてかなり踏み込んだ言説が見られたように思う(もちろん、これまでの候補がそれを言ってなかったわけではない、決して)。ただし、「基地問題を訴える〇〇か、生活保障を訴える△△か」という対立構図で理解しようというのは、端的に言って間違いだ。上でも示唆してみたように、これらの問題は相互に連関して一つのかたちを成している。そしてそれは県知事選である以上、中央政府との関係においても語られる。沖縄であれば、なおのこと。

最後に一つ言っておきたいのは、今後の生活保障のビジョンを語る上で外せないのは地域主導であり、その際求められるのが「地方分権」だということだ。この言葉はやけネオリベ的なノリに毒されている面があるけれど、地方分権というのは地方の権限を強めることによってより柔軟な個別具体的なニーズに応えられる体制を作っていこうよ、という話なのであって、間違っても中央政府の責任放棄という話ではない。

沖縄県知事選が示したのは、まさしく「地方分権」のひとつのかたちなのではないかと思う。その地方のアイデンティティを自覚しながらまとめあげ、その活力を生み出していく戦略は、まさに地域主導型生活保障のひとつの姿と言える。そして、そのアイデンティティのかたちは、基地問題をめぐる沖縄のこれまでの運動の積み上げのなかで生まれたものであることを決して忘れてはならない。

今後、どれだけ沖縄が独自の、柔軟かつ創造性にあふれる生活保障の戦略を練っていくかは、どれだけ沖縄が独自の権限をもって個別具体的なニーズに応えられるのかによっている。そしてその際、玉城が公約のなかで、ボトムアップ型民主主義の構想を提示していたことは重要だ。ニーズを表出し、それを政治へと組み上げていく回路こそは、まさしく民主主義の制度構想のキモの一つなのだから。

本土に生きる我々が受け止めるべきことは多く、あまりに重い。沖縄が出した一つの答えを、真正面から受け止めなくてはならない。