Good afternoon

基本的に乃木坂について書いていくつもりです。自分の言葉に責任を持つ気が毛頭ない人たちが中の人をしており、それが複数名います。ご容赦ください。

姿勢と目と声について

ひねくれ者と言われて久しい僕だけど、実はそんな僕にも、尊敬できる大人がいる。

その人は、とにかく楽しそうに仕事をしている。飲み会には参加したりしなかったりで、仕事にかんしてはその人はえらく真面目だから、実はそんなに話したことはなかった。それでも機会はめぐるもので、会社の忘年会でその人の隣になったとき、せっかくだからと話を聞こうと思った。

びっくりしたのは、その人はほとんど仕事の話をしなかった(ふられたときに返す程度で、そのときは結構真面目に話していた)。それよりもその人の話の比重を占めるのは、とにかく恋人の話だった。なんでも、学生のときずっと好きで、好きすぎて1日24時間ずっとその人のことを考えているくらいで(寝れなくて本当に24時間考えていたこともあったらしい、ちょっと怖い)、だからいざその人と付き合えたときは、とにかく天にも昇る気持ちだったらしい。それでしばらく経って結婚して、いまは子どもが一人いるという。

印象的だったのは、その人がずっと相手のことを「恋人」と言っていたということだった。結婚したら「夫」とか「妻」とか言うものなのだろうとか思っていた僕は、これにはちょっと衝撃を受けた。それと、その人はやっぱり、今でもその恋人のことが好きらしい。好きすぎて、「もしかしたら君にはものすごく仕事好きな人間に映っているかもしれないけれど、ぶっちゃけ今もずっと恋人のこと考えてるから。恋人のこと考える片手間に仕事をやっているだけだから」ということらしい。

なんじゃそりゃ。

もう気付いた人もいると思うけど、こんな人は現実にはいない。疲れきった僕が重い荷物を背負いながら階段を上がり、部屋に入るまでのだいたい7秒間くらいで考えたテキトーな作り話だ。

ついでに言うと、まず僕にはちゃんとこの世にいる尊敬できる大人がいる(あの世にもいるけれど)。そして、僕はひねくれ者なんかではなく、むしろ素直な人間として知られている。第一、人のことを「あいつはひねくれている」だなんて言う奴は、大抵が、もっとひねくれているに違いない。この理屈はタイピングしながらテキトーにでっちあげたものだ。

何かを考えたり、構想したりするとき、どうしてか僕は、物を書いたり、なぞるように考えたり、それこそタインピングしながら、それを行う。考えながら喋って、というより、喋ることによって考えてそれを喋る、みたいなことをするものだから、途中で着地が見えなくなって、曖昧な表現をしたりすることもある。これはあまりよくない癖なので、聞かれた質問には、極力yesかnoか、また5W1Hで聞かれたらそれに対応するよう最初に返すようにしている。そうすれば一応、返答としては問題はないはずだ。

7秒間でこの世界に産み落とされたその大人について、もう一つだけ。その人と会ったのは僕が会社に入って二日目のことだったのだけど、初っ端から「君、服がかっこ悪いね」と言って、その後延々とファッションの話とか音楽の話とかをしてきた。私服出勤の会社だから、そういう話にもなる。「常に自分が人から見られながら生きていることを真面目に考えろ」と言われた。

もちろん、こんな人はいない。念のため。

環境

ちょっとしたことがあって、環境がだいぶ変わった。「ちょっとしたこと」といっても、年度が変われば誰であれそれなりに景色は変わるだろう。学校なら言わずもがな、会社なら新入社員が入るなど人の入れ替わりがある。入れ替わり、といったら、学校もそうなんだろう。環境が変わるというのは、自分の周りの人間関係が変わるということなのだと思う。環境の定義は別にエコロジーでグリーンな感じというよりは、自分の身の回りのもの、くらいの位置付けだ。つまるところ外部である。そして人間関係の束が社会であるとするときに、やはりそれを超えた外部として環境がしばしば語られるし、だから人類というレベルで応対可能な対象として緑とかそういうのがイメージされるのだろう。ようするに、自分では手のつけようのない定数である。神様については、自分に手をくだすけど環境ではない。とすると環境は、外部であり定数であるとともに、基本的には自分に干渉してこないものを指すのだろう。事実、自然が人間世界に押し寄せてくると(津波地震、雷など)、それは神との連関をもって語られたりする。

なんの話だ。

そう、環境が変わった。いま僕は、ずいぶんと忙しくなっている。これは端的に「舐めていたから」に過ぎない。ここは忙しいよと言われていて、あらそうなんですか、と思ってそこそこ覚悟していたけれど、いろいろと日程が重なり、とてもとても忙しくなってしまった。間違っても、こんな文章を書いている場合ではない。すくなくとも、予想の1.5倍は忙しい。困るのが、他の用事もかぶってしまったということだ。おかげで、「この日程感覚なら大丈夫っしょ」と思ったのが、意外とそうでもなくなってしまっている。

そう、僕の根本的な問題は、単にスケジュール管理を怠っていたということに過ぎない。そして原因は一応ある。僕のこれまでの日程感覚は、いつも何かしらの優先度の低いことをやっていて、でもたまに面倒ごとが一つくるから、その都度それを処理する、といったものだったのだ。面倒事はだいたい一つで(たまに三つくらい重なるけれど、めったにない)、それも対応可能なもので、かついつもの作業とのつながりは十分認められるので、そつなくこなしてこれた。だけれでも今は、同じくらいの優先度のものが4個くらい一気にきて、かつそこに、別領域の優先度の高いものがまた2個くるといった具合だ。これは仕事の量が一気に増えたというよりも(量自体はそこまで変わっていない)、それが降りかかってくるパターンが変わったから、これまでの感覚じゃさすがに処理できなくなっている、ということだ。

そういうわけで、僕は大学院に進学した。学校というところに戻るのはずいぶん久しぶりな気がするけれど、別に学部生とのかかわりがあるわけじゃないから、正直、あまり楽しくはない。学びたいことを学べるのは楽しいけれど、こんなに授業があってどうするのだという気持ちはある(もっとも、それは確実に僕の力になっていく類ものだから問題はそこまで大きくないのだけれど)。とはいえ、同期の人たちや先輩たちとは、あまり気が合わない。というか、音楽の趣味が合わない。服の趣味も。自分をどう見せるか、自分が何を好むかというのは、人と人とをつなげる重要な材料だし、なにより同じ文化圏にいると、それだけで気があったり楽しめたりするものだ。だけれども、予想通りといえばそこまでだけど、気はあまり合わない(決して対立しているわけじゃない、念のため)。やはりここは閉じた世界だなと思う。それは周りの人たちの文化レベルが云々ということではなくて(そんなこと言ったら僕だってダメダメだ)、文化の違いや共同が外に広がりにくいということだ。学部の頃は、さすがに今より人数が多かったから、確率上、気があう奴はちらほらいた。そしてそういう奴らは、今でも大切なつながりになっている。多分。

ここは学生の数がとにかく多い。あまりにも多くてくらくらするけれど、僕の周りはだいぶ人が少ない。入りたてだから当然なのか。なんにせよ、環境は大きく変わった。僕は僕で、いまだにここにうまく馴染めずにいながら、目の前の仕事をこなさざるを得ない状況に陥っている。そして、こういう静かな喧騒のなかで、僕は気付かぬ間にここにそれなりに根を降ろすのだろう。

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無感覚なとある広告について

新宿にあったという広告について。

働く場は否応なしに人を有用/無用の基準に当てはめ、あまりに多くの人を無用のカテゴリに入れる(だから対抗的な公共圏としての労働組合は本来重要である)。しかしこの広告ほどそれを「正当である」と雄弁に語るものはなく、意図的か否か、現在の政治動向と合致する。

現代の労働社会において「無用」とは存在の否定に繋がりかねない。しかしAIをはじめ人間の行う仕事の多くはいずれ機械へと代替されてゆく。アメリカの「ラスト・ベルト」においては製造業の成長率は低迷してはいないものの雇用の劣化が叫ばれていた。ロボット産業がより効率的な生産を可能にしつつ労働者の行き場所を奪い、その政治不満がトランプの言説戦略を介してあの結果を導いたという単線的な説明は、それほど大きく外れているわけでもないだろう。言い換えれば、これは社会における承認をめぐる問題なのである。
 
日本社会における「承認」をめぐる諸問題を語るとき、労働・雇用のかたちの変動を語ることから逃れることはできない。基本的に日本の雇用のかたちは欧米一般のそれと割と異なり、会社におけるメンバーシップの有無こそが問題となる(←→ジョブ型雇用)。残業が続くにしてもそれは将来生活のための社会契約であった。何より、会社内における交友関係は承認をもたらすものでもあった。そして現代まさにその雇用のかたちこそ崩れつつある。年功序列、企業福祉、終身雇用といった雇用に際する労働者の利得に対し現在悉く疑いの目が向けられている。ブラック企業や増大する非正規雇用が話題になってしばらく経つ。今、「承認」の場としてかつてあった会社という入れ物は音を立てて崩れつつある。
 
「承認」の再編成。有用/無用のカテゴリ化の衝動は労働者に自らが「有用」であることを社会に対し示し続けさせることを要請する。「会社に対し」と「社会に対し」はここにおいてイコールとなっている。よって、自らの市場価値(この言葉それ自体でさえ!)を高めるということは、現代日本社会における倫理的要請なのだ。そして言うまでもなく、この広告は現代日本社会の強いる倫理的要請を、まさに国策と結びつけるものである。製作者の矮小な意図など遥かに超え、それは労働を「戦争」と呼ぶことにより「総動員」としてのあり方を強調する。すなわちこの倫理的要請は日本国民全員に対し、自己の絶えざる有用化=市場価値の向上を訴えかけている。ここで読者は既に「一億総活躍」なる国策のひとつを思い出している。
 
こういう無感覚な広告が跋扈することもまた、有用/無用のなかで肯定されていくのだろう。供給者の論理はこうである。「今は技術も発展し、5年後に自分よ仕事があるかさえ分からない世の中だ。そして戦争という言葉はその深刻さと供に誰しもに響く。だからこそこの広告は有用である」。なるほど主体も個人も有用/無用のカテゴリのなかでのみ配置されその論理でのみ遇されるという点においてまさに現代日本社会は「戦争」の様相を呈している。この「戦争」においてはあらゆる主体も個人も失効するがゆええに誰も責任を取ることはない。
 
この広告はスーツ会社によるものである。戦闘服という見地から肝心なこととして、デザインの統一性をまずスーツは可能にしている(ここで思い出すべきは、ホワイトカラー男性の仕事着として想定されるのがスーツであるのに対し、女性はより多様であるということである。このことは単に女性に「メンバーシップ」を与えない日本の雇用社会の残滓であるが、しかしこの広告において女性は「戦争員」としての承認を受けている。「女性の活躍」!)。通気性についていえば湿気の多い日本ではマイナスに働くことが一般に想定されるも、しかし押し付けられた痛みの共有は連帯を生みうる。何より戦闘服として見逃せないのは、これまでの戦争史における軍服の「お洒落さ」であろう。そう、本稿の役割は何もこの愚劣無感覚極まる広告の批判にでなく、「サイレント・マジョリティー」で一役有名となり、その歌詞内容においてはリベラルも一部が多くかが合意、しかしハロウィン・パーティにおいて制服がナチスのそれに類していると多大な批判を受けながらも念願の紅白初出場を果たした欅坂46、それをめぐる言説を理解するための補助線を引くことにある。
 
どのような背景があろうとも、それは確かに「かっこいい」のだ。しかしその「かっこよさ」は何によって果たされたのか、どのような目的のために果たした結果であるのか、このことを失念してよいのだろうかというのとこそが、ハロウィン・パーティでの批判から紅白出場にかけて問われていたことなのである。すなわち問われていたのは歴史への感覚の有無を社会が引き受けるか否かである。この広告はそうした問いの延長線上にあるものと見るべきである。今まさに、スーツは文字通り「軍服」としての意味を付されようとしているのだから--誰も責任を取る気はないままに。
 

good afternoon everyone

タイトルで書いたのは、C.O.S.A. × KID FRESINO "LOVE Prod by jjj" の始まりにある言葉で、どうしてかそれが印象に残っている。ありきたりで特に意味のない言葉なのだけど、それでもPVの雰囲気と相まって、そこにはないはずの景色を規定する。たしかKID FRESINOとkandytownのIOが対談のなかでKF(って略すと、カーネルおじさんみたいだ)が「歌詞の内容は意味がわからないけれど、その描写しようとする景色が想像できる」みたいなことをIOについて言っていたけど、こういうことなのかもしれないなと思ったり。

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乃木坂について書きます、というのがブログの趣旨だったのだけど、いきなり関係のないことを言ってしまった。でもせっかくなので、これは関係あるんだぞ、という暴論を、一つ、してみたいと思う。それは結局のところ「ヒップホップとは何か」という問いと関連することになるし、そういうのを規定した瞬間にヒップホップの定義からおそらく外れることになる、そういうところにその音楽(ジャンル)の面倒があるのだけど、とりあえず。しかしヒップホップとは何かについて語ろうとすれば、おそらくは一つの楽曲かアルバムか、ラッパーか、とりあえず「一つ」と定めた対象について延々と述べなければならなくなる。そんな能力はぼくにはないし、そんなことをするつもりもない。だから印象に残っているバトルについてほんのちょっと書いてみようと思う。ここでバトルを取り上げるのは端的に、それが現在、日本で「ヒップホップ」を代表するものとなっているように思えるからだ。 

たぶん業界(それがどこにあるかは知らないけれど)において、先のT-PablowとISSUGIのバトルは有名なのだと思う。結局このバトルはISSUGIが勝利したのだけど、どうしても「ISSUGI、ちょっとナイーブすぎない?」というイメージが拭えなかった。

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印象的なのは、「主役」をめぐる応答だ。「どう考えてもPablow主役/お前は脇役カラー」とT-Pablow、それに対しISSUGIは「テメエは主役になりてえんだな/俺は脇役で充分/HIPHOPは名もない奴に言葉持たせる音楽」。ISSUGIの言いたいことはなんとなく分かるし(分かる、というのもアレだけど、とりあえず)、事実自身のヒップホップとは何かを明確にしたかれがこのバトルでTPを圧倒したというのもよく分かる。だけれども一つ解せないのが、「結局お前は脇役のままじゃないか」ということだった。書いてみて、なんてしょーもない感想だ。 

でもこれは結局のところ、ぼくのヒップホップ観がいけないのだと思う。どうしてもぼくは、ヒップホップは自分自身の論理をもって世界のルールを変えていく行為遂行的な営み、というふうに考えてしまう。たとえば世界に格差があるとして(実際あるけれど)、その格差によって「虐げられている」人たちがいるとする。そうした人たちは先進国の中間層以上からすれば「負け組」のように映るかもしれないし、また自分の生きる世界の治安を揺るがす危険な存在に映るかもしれない。また、自分が払っている税金を使って遊び呆ける堕落した連中に映るかもしれない(実際セクシズムとレイシズムがミックスしたWelfare Queenという最低な揶揄がアメリカではあって、これが後にビル・クリントンのworkfare改革につながったという話もある)。そうした人たちは現実的な政治経済的権力格差のなかで客体として扱われる。だけれども、そうではないのだ、我々こそが主役なのだと言うとき、世界は反転する。あくまで自分たちの論理-だからそれはセクシズムを往々にして含む-をもって世界へと君臨する。わざわざ理屈じみた告発をするのでもなく、綺麗事にまみれた演説でもなく、ただ自分たちの言葉で、自分たちの世界(もしかしたらアレントならそれをperspectiveと呼んだかもしれない、勉強不足でよくわからないのだけど)を表す。そしてその行為によって世界を転覆させる。だから「俺は脇役でいい」というISSUGIの言葉は、どうしてもナイーブに聞こえてしまうのだ。こんなこと言ったら、いろいろな人から怒られてしまいそうだけど。

さて、世界の反転行為において、あらゆる主体と客体は都合よく逆転される。自身を規定する構造は立ち上がるための土台となる。自らを虐げる「あいつら」は攻撃の対象となる(こういうこともあって、ぼくのヒップホップ理解はどうしてもネオリベラリズムや、またトランプ的なものと親和性が高い、困ったものだ)。ここで思い出すのが、齋藤飛鳥北野日奈子に宛てた手紙だ。いろんなところに動画が落ちているので、とりあえず二人の名前を検索欄に入れたら一番上に出てきたこれを使うことにする。

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「今日だけは、先輩という立場を使って言わせてください。後輩なんだから無理はしない! 頼りないけど先輩である私にもっと頼る! 日奈子が笑顔でいなきゃいけないのなら、私が日奈子の分の涙を流します!」 

これは、結構すごい言葉だなと思う。ありふれているようで特別なのは、「先輩」というある種日本的な権力関係を「使って」=利用して何を擁護しているかといえば、北野日奈子がそれ自体であるような何かである。かといってこの手紙のなかで「友達」という関係性を指す言葉が使われているわけではないし、むしろ一期生と二期生という間柄でよかったとも言う。 

この世界が仮に反転しようが、露悪主義に塗れようが、差別が横行し、見えないところで人が死のうが、ただ自分さえよければいいというイズムがこの先なくなるわけではないだろうし、被–抑圧者がそれをもつ限りにおいてそれは抵抗のかたちとして一つ擁護されるのかもしれない(尤も近年のテロルのことを踏まえても、やはりそれは非暴力的に行われなければならないはずなのだけど)。そして齋藤飛鳥の手紙には、ひとえに他者を擁護するためには権力の地図さえ利用する独自のぶてぶてしさがある。出会うタイミング、年齢、背景となる人間関係など様々なものに規定されつつも、出会いの偶然をただそれ自体として擁護し、手紙を介した〈あなた〉を、既存の社会関係を利用しながら擁護する。この、非暴力的で脆い、世界の、おそらくは無意識的な転覆作戦は、それが手紙として秋元真夏という第三者に皆の前で読まれることによって、そして動画としてそれが残ることによって、それが個人的であるがゆえに成功を収めている。そう、この利用主義的な他者の擁護と意図的な〈あらわれ〉をもって、この営みは言葉の狭い意味において「ヒップホップ」的なのだ。ここで「狭い」とは通常の使用法と異なるそれを用いている。まずぼく自身の定義による時点で狭く、そしてそのなかでも単に論理を抽出したのみという意味でさらに狭い。(そしておそらく、本当に、真面目にヒップホップを語るのであれば、おそらく逃れようのない悪についての考察が必要になるのだけど、それはまた、そのうち。)

言葉が紡がれ、閉じたとき、紙面の上のそれは一つの生命を終えるけれど、それは誰かに発見され、看取られないかぎりは世界において〈死〉となることはない。アレントは「誕生」そのものをひとつの〈世界〉のあらわれとして擁護したけれど(たしか)、しかし思考実験の論理で言えば、かりに〈世界〉があらわれたところでその誰かが永遠に誰とも接触せずに死んでしまえば、それはあらわれなかったことになるだろう。もちろんアレントはそこをも見ているのだろうけれど(勉強不足にして知らない)、どのみち肝心なことは、生も死も、すべては他者あっての話なのだ(cf. 西谷修『不死のワンダーランド』)。あの手紙を、誰がどのように〈死者〉として発見し、解釈を与えるのかはよくわからないし、特に期待もない。つまるところ「よくある話」だし、「誰にだって言えること」で、しかも対象も対象だから、何人かのつまらない批評家を除いてはそれを真面目に論じようとはしない。そもそもそれは、ともすれば「どこにでも落ちているもの」の域を出ない。

グッド・アフタヌーン。こんにちは、この毎日やるような挨拶は目の前の他者に発せられている時点で、他者の生を擁護しているのかもしれない。そう、齋藤飛鳥は「成功」した。それを勝利と呼ぶか否かは後世が判断するのだろうけれど、しかし彼女が〈あなた〉へと宛てた言葉は、まず確かに届き、それは世界にあらわれ、閉じ、解釈を迫るものとして打ち出された。

きっと、どこにでも落ちているありきたりな「捨てられた」言葉には、常に世界を転覆する潜在性が、その内奥に秘められている。ぼくたちがここを歩くとき、誰かの視点でなく、自分の目で歩く。足で、手で。それはとても傲慢なことだ。動いているように見える世界の上でただ自分が勝手に回っているに過ぎない。だけれども自分の生を、大切な誰かの歩みを規定する何かが仮にあるのだとして-それは構造でもかまわない-それを相対化できる言葉がこの世界のどこにでも落ちているのだとすれば、それは結構すごいことではないのだろうか。ヒップホップのように自らを積極的に表す言葉もあるだろうし、誰にも見つからずに当たり前のように消え去る言葉もあるだろう。

ぼくたちはいつだって言葉を発する。ここで言葉とはcode以上の意味を持たないのだけど、しかしぼくたちにはぼくたちの世界の共通の言語があって、それは多くの人にとって排他的だけれども、でも特定の誰かに向かっている限りにおいてそれは言葉として確かに機能している。〈あなた〉とわたし、われわれとあなた、国民と政治家の間には憲法という言葉があるように。言葉が活きたものになる瞬間がある。活きたのか、それとも生きたのか。漢字の正確な使用法など言語学者にでも任せておけばいい。そんなことよりも、「今夜俺は歩いて帰れるだけの酒を飲み/そして潰れたfriendsを跨いで振り返る」。いつだって〈あなた〉がいて、だからこそ〈わたし〉がいる。

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first

こんにちは。こんばんは? 基本的に、乃木坂46について書いていくつもりです。独り言以上の意味を持ってはいません。よろしくお願いします。

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