Good afternoon

基本的に乃木坂について書いていくつもりです。自分の言葉に責任を持つ気が毛頭ない人たちが中の人をしており、それが複数名います。ご容赦ください。

会長

最近、研究をサボっていた。

 

いや、「最近」でもないのか。じゃあお前はその間何をしていたのだと聞かれたら、「アニメ見て、漫画読んでました」としか答えられない。

元々僕は、年末→正月にかけて、ダレる。大学受験のときもそうで、ここら辺のオンオフを過剰にしっかりさせることがもはやアイデンティティみたくなっているところもあるので、ちょっとやそっとで治せそうにない。問題は、ではいつスイッチを改めて入れるかだ。

大抵は、授業だったり、仕事だったりと、再始動の日程が決められているから、そこに合わせる。ただし、その時までは、まず自主的には動けない。というわけで僕は、授業再開が遅いのをいいことに、ずっと怠けていて、その期間が長すぎたこともあって、今でもダレていたわけだ。

 

最近見て、読んだのは、『会長はメイド様!』という作品だ。友人の関係で、たまたまアニメを見る機会があり、これは面白いかもしれないと、単行本を読んだ。そして、その単行本も、良かった。Wikipedia先生によると、掲載期間は2006年6月号から、2013年11月号。作中ではガラケーが使用されていて、物語の終わり頃では、碓氷くんのお兄さんが「スマホ使えば?」的なことを言っていたあたり、技術の進歩を感じる、まぁそんな頃の作品だ。友達に「これ面白いよね」的な話をしたら、今更?的な反応が多かった。「小学生のときでした」と言われた時には、さすがに心が折れそうになったけど。

最初このアニメを見たときは、この作品はセクシズムについて扱っているのかなと思った。主人公は生徒会長で、威厳がある。女子が少なく、元々それなりにガラの悪かった(ヤンキー校という感じでもなさそうだけど)星華高校を女子生徒にとってもっと過ごしやすい環境にするよう、しょーもない男子生徒たちと格闘しつつ、日々励んでいる。他方、家計は苦しく(物語が進むなかで、少なくとも主人公が思ってるほどには苦しいわけではなかったと説明がある、事実としては、割とシビアなのだけど)、割りのいいバイトとして、メイド喫茶に勤めている。だけれども、会長としての「威厳」があるから、みんなにはナイショにしている。

会長としてのスタイルは、その戦闘性にある。なにせ男子生徒がやかましいものだから、いちいち懲らしめなくちゃいけない。だから、男子生徒からは、恐れられつつ、嫌悪感も抱かれる。でも、そのスタイルがうまくいかなくなったとき、もう一人の主人公である碓氷拓海くんに、「もっと男子と協力したら」的なことを言われる。主人公は少しずつだけれども、男子生徒の話も聞き入れつつ改革を進めていく。白眉としては、雅ヶ丘高校(ウルトラスーパー金持ち学校)の生徒とのイザコザの際、主人公が、星華の男子生徒が雅ヶ丘の生徒を殴った理由を聞いて(その雅ヶ丘の生徒の親が経営しているチェス・ショップを見ていたら一方的に「ハエ」呼ばわりされた)、雅ヶ丘に出向いた際に「こっちにも非があるけど、まずお前が謝れ」と言ったシーンがある。星華のその二人の男子生徒は、後に主人公を「意外と話が分かるし、きちんと俺たちの声を聞いてくれて、俺たちのために動いてくれる」と認識し、頼り、また生徒会選挙の際には応援に転じる(このシーンは、アニメでは無い)。

主人公(の、名前を言うのを忘れていた、鮎沢美咲さんという)が、家計が厳しいにもかかわらず生徒会長なんて面倒なことを、しかもかなり積極的に引き受けているのには、その「男嫌い」がある。父親に見捨てられたのだ(後に設定修正が入る)。その意味で、主人公は、自分の経済環境より前に、「男嫌い」というある種の理念をもって、男子生徒が多くかつ下品で女性抑圧的だという学校の構造を改革すべく、生徒会長に就任したということになる。主人公は戦略的なアクターというよりは、衝動的なアクターだ。とはいえ主人公は努力を決して怠らないし、むしろこの点が超人じみている。だからときに空転する。そんななかで、碓氷くんがある種「クッション」的にも機能する。

また、この作品には、兵藤葵というキャラクターも登場する。完璧な女装をするこの「男の子」は、「心は女の子」ではなく、可愛いものが好きなのだという設定をもつ。しかし厳しい父親にそれは認められない。主人公のバイト先である「メイド・ラテ」に入り浸るようになり、そのなかでの承認もうけつつ、自分のあり方を無理なく肯定していくようになる。

 

ここまでは、アニメで触れられている話だ。しかし漫画は続く。その漫画後半部では、碓氷くんの出生の秘密とともに、イギリス上流階級との対抗が描かれる。とんでもなく複雑な出自をもつ碓氷くんは、まず雅ヶ丘高校に転校し、イギリスに発つ。それを追うように、主人公はイギリス上流階級のマナーを、たまたま利害の一致した(一応)雅ヶ丘高校生徒会長の五十嵐虎の多大な協力を得て、追う。ここでは、階級格差を乗り越える愛がテーマとなる。

しかし思えば、もともと漫画の方は、はじめから、少なくとも、格差をテーマにしていた。主人公の家計は苦しく、他方で自分自身の理念を貫くべく生徒会長の座に就き改革に着手するも、しかし苦しい家計ゆえに行っているアルバイトのことは、誰にも言えない。平たく言えば、自分がただ貧しいがために置かれた状況と戦略に、主人公自身がそれを公言できない。自らのありようを自己否定させるメカニズムがここに垣間見える。

しかし物語の展開のなかで、これは階級漫画になる。明け透けなイギリス上流階級との触れ合いのなかで、主人公は自身の置かれたあまりの「無力」さを痛感する。

 

セリーナ・トッドを参考にすれば、階級とは一つの関係だ。まぁ、これはわりかしありきたりな定義でもあるけれど、その関係が露骨に、しかし物語の確かな延長線上に、あらわれる。階級が関係であるならば、話のはじめから、あまりの格差ある二人のエピソードそれ自体が、それを乗り越える愛のあり方をめぐる、つまり  “そうでない” 関係をめぐる物語だったと言える。

でも、このことは物語が展開してみないと分からない。だからこそ、『会長はメイド様!』は、アニメ化に成功した。作品の切り取るところが違えば主題は異なってくるし、それは思想・哲学に携わるまでもなく、論じることを経験した人なら誰しもが知っていることだ。この作品は、アニメでは前半部のみを切り取ることによって、ジェンダー・イシューないしはフェミニスト戦略の転換に焦点を当てた。そして漫画全体を通じ、それらが関係としての階級という視点のなかで再解釈されていく。

関係のありようは、誰に言われるまでもなく、多様だ。経済的な格差か、もしくはジェンダーか、みたいなただ一つだけの区分けは存在しないし、実のところ、当人たちにとって、そんなものはどうでもいい。一人歩きしたそうした「形式」だけが、身勝手に引き裂いてくるだけだ。鮎沢さんも碓氷くんも、そうした、一人歩きした「階級」やら何やらに、振り回されることになった。しかし二人は一貫して、自分たちのやりたいようにやった。つまり、鮎沢さんは碓氷くんのことが好きで、碓氷くんは鮎沢さんのことが好き、ただこれだけだ。そして、『会長はメイド様!』の主題は、切り取る点がアニメが前半部のみであったとしても、変わらない。ジェンダーがイシューだとしても経済格差との格闘が舞台であるとしても、通貫しているのは、ただ単に、「でも私はこの人が好き」というものだ。

 

実はあの世界的ファンタジー小説ハリー・ポッター』も、階級をテーマにしている。この指摘自体は多分目新しいものでもないから、特に詳述するつもりはないけれど、作者のJ.K.ローリングの構想としてはおそらく、「階級を乗り越えるものとしての愛」というのが、一つのテーマになっているのだと思う。愛を知らないヴォルデモートは、その出自に絡め取られながら救いのない悪の権化となってしまった。それに対してハリーを常に守ってきたのは、額に刻み込まれた稲妻型の愛だった。

国境、性別、生活環境と、僕たちはいつも何かしらの境界線に区分されながら生きている。だけれども、その境界線自体はあくまでつくられたものでしかなくて、だからこそ修正可能性も、はたまた飛び越える余地もある。でもそれは大変な仕事だ。愛は狂気に似ている。それは境界線を軽々と飛び越えて、人をつなぐ。

最終話、2人は結婚し、鮎沢さんは外交官に、碓氷くんは医者になる。どちらも「イギリス上流階級のなかで認められるため」といった要因があり、特に鮎沢さんについては碓氷くんとより対等に近い状況に自らを置くための戦略だ(その後、強くやりがいを感じている)。一見、境界線の論理に巻き込まれたかのように見える。でも2人は、披露宴が終わるや否やヘリコプターで脱出、2人だけの世界へ入る。穴を開けられた境界線は、塞がれるとしても、決してその原型をとどめない。穴をあけるにも戦略はあり、既存の秩序にも見るべきものがある。革命ではないけれど、しかし漸進的な変容もまた不可逆的な変化のはずだ。そうしたものを描いていたのだと読んでみるのは、さすがに考えが過ぎるだろうか。

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(下書きはおそらくは半年以上前で、オチとかもなかったのを、なんとなく加筆したうえで載せました。タイトルは今つけました)