Good afternoon

基本的に乃木坂について書いていくつもりです。自分の言葉に責任を持つ気が毛頭ない人たちが中の人をしており、それが複数名います。ご容赦ください。

くらった本② 川西諭(2009)『ゲーム理論の思考法』中経出版

こんなのも書いてたのであげときます。この本はゲーム理論の面白さや、合理的な物事の考え方の楽しさを僕に注入してくれた本で、多分いまだにそういった意味において影響を与えている本なのだと思います。ゲーム理論の入門本は今ではめちゃくちゃ多くあり、この本でないといけない理由もないのですが、まぁ個人的な読書経験として。ところで丸山眞男ゲーム理論、みたいな本紹介って多分なかなかないですよね。政治学界隈(サイエンス的な人は置いとくとして)の人はもっと経済学を取り上げてもいいし、逆もまた然りだと思います。

 

 

 

「あなたは賢いですね」

たまに、こんなことを言われる。「頭がいいですね」とか。「深く考える人ですね」と言われる方が嬉しいのだろうけれど、記憶の限りでは、まだ言われたことがない。

地頭みたいなことはよく分からないけれど、少なくとも僕が賢く振る舞えているのだとしたら、それは単に、僕がそのようなトレーニングを受けてきたからに過ぎない。今の僕の持ち物の大半は後天的なものだし、それは必要だから取得したものでしかない。

もっとも、それが必要と判断するための土台は、好奇心や問題意識なのだろう。ただし、これらがあったところで適切なツール・ボックスを持っておらず、かつその使い方も理解していなければ、ただただ空転して終わる。考えたい物事や考えるべき対象があるのだから、そのための頭の使い方は当然学ばなくてはならないし、運のいいことに、僕はその機会に恵まれてきた。

 

川西諭さんの『ゲーム理論の思考法』は、僕に「頭の使い方」を叩き込んでくれた本の一つだ。ゼミの都合でゲーム理論の勉強をした時、先生がとっかかりとしてオススメしてくださったのが、読み始めたきっかけだ。といっても、読書は一晩で済んだ。僕は夢中になり、線を引き、ノートを取り、この本を読み終える頃には朝を迎えていた。あそこまで無我夢中で本を読んだ経験は、ひょっとしたら後にも先にも、無いのかもしれない。

僕は元々は経済学を専攻していた。いわゆる「新古典派」みたいなところに足場を置いていて、数理的なアプローチに魅力を感じていたのだ。ゲーム理論から始め(このスタートも今思えば不思議だ)、統計学の初歩を経てミクロに行った。ミクロは岩田規久男『ゼミナール ミクロ経済学入門』が始まりで、数学的な最低限の説明はその合理性の美しさを伝えるには十分で、それでいて「端折らない」ものだった。僕は経済学の世界に魅力を感じた(この岩田本は名著なんだけど、いかんせん古くてゲーム理論の説明とかが弱かった。是非とも再販してほしい)。

転機は大学3年の夏頃に訪れた。僕は数学の勉強(僕はオススメされたのでChiangとWainwrightの『Fundamental Methods of Mathematical Economics』で勉強していた。これはとても分かりやすかったのだけど、日本語訳がいまいちで(元々英語の勉強として原著をベースに日本語訳を参照する作戦だった)、結局、原著だけを読むことになってしまった)と並行しながら中級ミクロを勉強しているときに、気づいてはならないことに気づいてしまったのだ。

「これ、何の役に立つんだ?」

上級くらいまでいけば役立てる道はいくらでもあったろうに、独学ベースはこういうところがいけない。その時僕は暇潰し的に有斐閣new liberal artsシリーズの『政治学』という教科書を読んでいて、それはかなりrationalなアプローチを意識して書かれたものだったから、そっちを夢中になって読むことになった。こうして、僕は経済学を勝手に挫折し、勝手に政治学の入口に足を踏み入れたのだ。

 

とはいえ、当時のrationalな発想が完全に消えたかといえば、全くそんなことはない。 僕自身はわりかし新古典派っぽいやり口に対し批判的なところに足場を置いてしまってはいるけれど、それはむしろ、合理的な世界の発想を基礎にして、そこから漏れ出るも当然あるよね、といったかたちになっている。

うまく言えない。

経済学を専攻していた時、よく知らない同じ大学の環境系のゼミにいた人に、「人間が合理的に動くわけないじゃん」と言われたことがある。「そんなこと知ってるわ」としか答えられなかった。いわゆるホモ・エコノミクスなる人間像が叩かれることは多い。ただ経済学はそんなこと百も承知で、だからこそ自身の限界がどこにあるかを知ることに余念がない。モデルは仮想世界でしかない。だけれども、仮想世界を構想することで見えるものもあるのだ。

 

今日は久しぶりに、研究の話をしない飲み会をした。

くらった本①丸山眞男著/杉田敦編(2010)『丸山眞男セレクション』平凡社ライブラリー

随分前に書いた文章がそんな悪くなかったのでとりま公開します

 

 

このブログを読んでいるクソ暇なあなた(ありがとう!)に一応伝えておくと、僕は何かしら思い当たったことをもってはじめの一文を決めてみて、そこから文章をとりあえず書き、最後にタイトルをテキトーにつけるというスタイルを取っている。これは他のオフィシャルな文章についても同じなので、習性とも言っていい。今回紹介する本ではないけれど、高橋の源ちゃんが随分昔に書いた『一億三千万人のための小説教室』という講義録には、「書き始めが一番大事なのだ」みたいなことさえ書かれてあるので、とりあえずはじめの一文が思い立った時点でまず始めてみるというのは、そんなにズレた戦略ではないと思い込んでいる。

何の話だ。

今回は、タイトルから先に決めた。そういえば大学院生と言っているくせに、それっぽい話をまるでしていないじゃないかと思ったし、そもそも、なんとなくそんな感じの話をしてみたいと思ったからだ。

そんなわけで、「くらった本」シリーズをやってみたいと思う。ただし、面倒で続ける気になるかはわからない。今日書くものの他には、栗原彬『「存在の現れ」の政治』やドゥルシラ・コーネル『 “理想”を擁護する』、ジョルジュ・バタイユヒロシマの人々の物語』に向山恭一『対話の倫理』、シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』、ジョン・デューイ『公衆とその諸問題』、なだいなだ『権威と権力』、見田宗介『まなざしの地獄』、いとうせいこう『想像ラジオ』とかを考えてはみているけれど、これだけで僕の読書傾向がバレそうなので、やめることにする。これらの他にもくらった本はたくさんあって、そのうちのいくつかは意図的に出していない。今日にかんして言えば、僕は別の本の話をしたいからだ。

 

まずはじめに僕が「くらった」のは、紛れもなく丸山眞男の作品集である『丸山眞男セレクション』だと思う。2、3年前に岩波文庫から3冊ほど丸山シリーズが出ていたけれど、丸山の作品が最も要領よくまとまっているのは、これだと思う。杉田敦さんの解説も重厚で読み応えがある。もちろん「これも入れてくださいよ杉田先生」と思うとこはあるけれど、どのみち僕にとってこの一冊が丸山の始まりだったし、ひょっとしたら、政治学の始まりだったとさえ思う。

お気づきの方もいると思うけど、僕はここで書評じみたことをするつもりはない(ええっ!!?)。そう、僕はただ、この本にくらったんだよー、えへへー、くらいの話しかするつもりはないのだ。

 

この本を知ったのはかなりの偶然だった。僕は当時国際系の学部に所属していたのだけれど、授業で最大公約数的に出てくるビッグ・ネームが丸山だったのだ。勉強熱心なフリだけは超一流だった僕は、迷わず丸山の名を検索し、どうやらこの本を読めば都合よくその議論を摂取できるらしいと踏んで、高い金を払って購入したのだ。「セレクション」というのだし、しかもあの杉田さんセレクトなら間違いないという雑な理由だ(それにしても、ソフトカバーでこの値段は高い)。

そして購入、読み始めたのだけど、はっきり言って、よくわからなかった(今でもよくわからないのはここだけの秘密)。ただ、丸山にはいくつかの重要な特徴があった。まず、日本語が上手い。圧倒的に上手い。無駄がなくシンプルで文体も流麗、僕にとっては難度によらず読むのに苦がなかった。そして、丸山は政治学だった。当時は政治学のゼミを聴講していて、その時のテーマが「公/私の区別」だったから、天皇制原理が個人の内奥に云々みたいな話はエキサイティングな思いで読んだ記憶がある。そして何より、丸山はテンションが高かった。丸山は政治学者としての基準を示そうとしていたその一方で、民主主義者としての独自の迫力があったのだ。

多分一番読んだのは「政治的判断」だった。タイトルの通り、まっとうな政治的判断ってなんだろうねという内容なのだけど、僕はこれこそが政治学であると確信し、何度も何度もページを開き、汚いメモを取っていた。他には「三たび平和について」か。僕はこれらの作品のなかで、政治的なリアリズムを追求すること、ゆえに狡猾であることについて思考し、それらが平和主義という理想と何ら矛盾のない「戦略」であることを学んだ。その裏側の物語の腐敗を知らない鮮度と共に。ただし、これらは「夜店」だった。続編を読みたかった僕は、『丸山眞男集』の面白そうなセクションをコピー・ファイリングし読み込むという生活を始めた。

 

今にして思えば、丸山の政治学は人間の情動的な部分をいささか見逃しているように思えるし、その部分的な発露は、苅部直『ヒューマニティー政治学』の「仮面」のたとえにも現れているように思う。仮面舞踏を楽しむというのは理屈としてはわかるけれど、それって辛いものがあるのではないか。また、舞踏会の独自の文化が排他性を孕むこともあるだろう。このことは、ハバーマスの公共圏論にたいするフェミニストたちの反論(その代表的なものとして、ナンシー・フレイザー「公共圏の再考ーー既存の民主主義の批判のために」グレイグ・キャルホーン編『ハーバマスと公共圏』を参照)を思い返せば秒でわかる。ラクロウのポピュリズム論を思い返す人もいるだろう。かつ、丸山の議論はそもそも「日本的」なのかという従来的な問いも有効だろう。現在の知的水準からして、丸山の議論をそのまま踏襲して偉そうにするのは、いささか無理がある。

ただ、そんなことはみんな分かっている。僕がそれでもなお丸山に学んだのは、丸山のテンションの高さだ。彼は本気で基準を示そうとしていたし、本気で民主主義を日本に根付かせようとしていた。僕は当時政治学なる学問を学び始めた頃で、「政治には、独自の考え方があるんだよ」と言われても「知らんがな」としか思えないような奴だった。僕に政治学を教えてくれた大恩あるその先生は、今にして思えばかなりのセクシストで、僕はいくばくかの違和感を覚え「こういう人間にはなりたくないな」と思いつつ、でもその人の学問的知見にも敬意を隠さずにいた。他方で僕の専攻はゲーム理論を軸とした新古典派経済学(の、多領域への応用)であり、もともとrationalな議論が好きという、ややこしい面も持ち合わせていた。丸山の論調は、少なくとも僕の肌感としてはピッタリ来たし、当時の僕の関心にもフィットした。

僕は政治学を丸山から学んだつもりでいるし(その割には、いささか劣等生なのだけど)、その意思を曲がりなりにも引き継いでいるつもりではある。何より僕は、当時の学部において丸山をありとあらゆる奴に読ませるなどしていた(この点に限定して言えば、我ながら良いことをしたと思っている)。その始まりがこの本だった。この本には丸山の、代表的なものがほぼ全て詰まっていると言って良い。この本を初めて読んで数年が経ち、埃程度の知見を蓄えた今でも、同じことを思ってはいる。

 

もし僕が編者の杉田先生に注文をつけるとすれば、あと2つ、丸山をダイジェスト的にも知るためにも、加えて欲しかったものがある。ひとつは「科学としての政治学」だ。これは丸山が大日本帝国からの「解放」をもって、ようやく日本で「科学としての政治学」が花開くのだと宣言した論考だ。おそらく、これを読まずして丸山のあの論調は理解できないのではないかと思う。丸山にとって政治学の基準を日本において示すことと、民主主義者としてのそれは、実は何ひとつ矛盾していなかった。

そしてもう一つは、「現代における態度決定」だ。これらは、どちらも『政治の世界』に収録されている。僕の説明はきっと、丸山の美しさを汚してしまうから、残りは引用だけで終わりにする。でも、もしここまで読んだクソ暇をこじらせた読者がいるならば、どうかこの論考をはじめから終わりまで通しで読んでほしいと思う。分かる奴には分かる、だなんて甘えではない。分からない奴にも分かる。僕はこれ以上に美しい日本語を知らず、これを形容する思いつく限りのすべての表現が陳腐に思えてさえしまう。僕は丸山の読者というには足りぬところがあまりにあるけれど、しかし僕を形成したその一部に丸山があることを否定はできないし、光栄にさえ思う。

今日は憲法記念日であります。憲法擁護ということがいわれますけれども、憲法擁護ということは、書かれた憲法の文字を、崇拝するということではありません。憲法擁護ということが政治的イッシューになっているということはどういうことか。この状況のなかで、私たちはどういう態度決定というものを迫られているか。憲法擁護ということが書かれた憲法というものをただありがたがることでなく、それを生きたものにするということであるとするならば、それを裏返しにしていえば、憲法改正ということーーよく改悪といわれますが法律的には別に正ということはいいという意味ではないので正といっておきますーー、憲法改正ということは、政府が正式に憲法改正案を発表したりあるいはそれを国会にかけるその日から始まるわけではありません。ちょうど日本国憲法が成立した瞬間に、その憲法が現実に動いているのではないと同じように、憲法改正もすでに日々始まっている過程であります。この日々すでに進行している過程のなかで私たちが憲法によって規定されたわれわれの権利というものを、現実に生きたものにしていくために日々行動するかしないか、それがまさに憲法擁護のイッシューであります。

われわれはどちらにコミットすべきなのか、憲法の九七条には御承知のように「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」とあります。今日何でもないように見える憲法の規定の背後には、表面の歴史には登場して来ない無名の人々によって無数の見えない場所で積み重ねられていった努力の跡が蜿蜒と遥かにつづいています。私たちはただこの途をこれからも真直ぐに堂々と歩んで行くだけです。短かい時間で意を尽しませんがこれで私の話を終ります。

 

会長

最近、研究をサボっていた。

 

いや、「最近」でもないのか。じゃあお前はその間何をしていたのだと聞かれたら、「アニメ見て、漫画読んでました」としか答えられない。

元々僕は、年末→正月にかけて、ダレる。大学受験のときもそうで、ここら辺のオンオフを過剰にしっかりさせることがもはやアイデンティティみたくなっているところもあるので、ちょっとやそっとで治せそうにない。問題は、ではいつスイッチを改めて入れるかだ。

大抵は、授業だったり、仕事だったりと、再始動の日程が決められているから、そこに合わせる。ただし、その時までは、まず自主的には動けない。というわけで僕は、授業再開が遅いのをいいことに、ずっと怠けていて、その期間が長すぎたこともあって、今でもダレていたわけだ。

 

最近見て、読んだのは、『会長はメイド様!』という作品だ。友人の関係で、たまたまアニメを見る機会があり、これは面白いかもしれないと、単行本を読んだ。そして、その単行本も、良かった。Wikipedia先生によると、掲載期間は2006年6月号から、2013年11月号。作中ではガラケーが使用されていて、物語の終わり頃では、碓氷くんのお兄さんが「スマホ使えば?」的なことを言っていたあたり、技術の進歩を感じる、まぁそんな頃の作品だ。友達に「これ面白いよね」的な話をしたら、今更?的な反応が多かった。「小学生のときでした」と言われた時には、さすがに心が折れそうになったけど。

最初このアニメを見たときは、この作品はセクシズムについて扱っているのかなと思った。主人公は生徒会長で、威厳がある。女子が少なく、元々それなりにガラの悪かった(ヤンキー校という感じでもなさそうだけど)星華高校を女子生徒にとってもっと過ごしやすい環境にするよう、しょーもない男子生徒たちと格闘しつつ、日々励んでいる。他方、家計は苦しく(物語が進むなかで、少なくとも主人公が思ってるほどには苦しいわけではなかったと説明がある、事実としては、割とシビアなのだけど)、割りのいいバイトとして、メイド喫茶に勤めている。だけれども、会長としての「威厳」があるから、みんなにはナイショにしている。

会長としてのスタイルは、その戦闘性にある。なにせ男子生徒がやかましいものだから、いちいち懲らしめなくちゃいけない。だから、男子生徒からは、恐れられつつ、嫌悪感も抱かれる。でも、そのスタイルがうまくいかなくなったとき、もう一人の主人公である碓氷拓海くんに、「もっと男子と協力したら」的なことを言われる。主人公は少しずつだけれども、男子生徒の話も聞き入れつつ改革を進めていく。白眉としては、雅ヶ丘高校(ウルトラスーパー金持ち学校)の生徒とのイザコザの際、主人公が、星華の男子生徒が雅ヶ丘の生徒を殴った理由を聞いて(その雅ヶ丘の生徒の親が経営しているチェス・ショップを見ていたら一方的に「ハエ」呼ばわりされた)、雅ヶ丘に出向いた際に「こっちにも非があるけど、まずお前が謝れ」と言ったシーンがある。星華のその二人の男子生徒は、後に主人公を「意外と話が分かるし、きちんと俺たちの声を聞いてくれて、俺たちのために動いてくれる」と認識し、頼り、また生徒会選挙の際には応援に転じる(このシーンは、アニメでは無い)。

主人公(の、名前を言うのを忘れていた、鮎沢美咲さんという)が、家計が厳しいにもかかわらず生徒会長なんて面倒なことを、しかもかなり積極的に引き受けているのには、その「男嫌い」がある。父親に見捨てられたのだ(後に設定修正が入る)。その意味で、主人公は、自分の経済環境より前に、「男嫌い」というある種の理念をもって、男子生徒が多くかつ下品で女性抑圧的だという学校の構造を改革すべく、生徒会長に就任したということになる。主人公は戦略的なアクターというよりは、衝動的なアクターだ。とはいえ主人公は努力を決して怠らないし、むしろこの点が超人じみている。だからときに空転する。そんななかで、碓氷くんがある種「クッション」的にも機能する。

また、この作品には、兵藤葵というキャラクターも登場する。完璧な女装をするこの「男の子」は、「心は女の子」ではなく、可愛いものが好きなのだという設定をもつ。しかし厳しい父親にそれは認められない。主人公のバイト先である「メイド・ラテ」に入り浸るようになり、そのなかでの承認もうけつつ、自分のあり方を無理なく肯定していくようになる。

 

ここまでは、アニメで触れられている話だ。しかし漫画は続く。その漫画後半部では、碓氷くんの出生の秘密とともに、イギリス上流階級との対抗が描かれる。とんでもなく複雑な出自をもつ碓氷くんは、まず雅ヶ丘高校に転校し、イギリスに発つ。それを追うように、主人公はイギリス上流階級のマナーを、たまたま利害の一致した(一応)雅ヶ丘高校生徒会長の五十嵐虎の多大な協力を得て、追う。ここでは、階級格差を乗り越える愛がテーマとなる。

しかし思えば、もともと漫画の方は、はじめから、少なくとも、格差をテーマにしていた。主人公の家計は苦しく、他方で自分自身の理念を貫くべく生徒会長の座に就き改革に着手するも、しかし苦しい家計ゆえに行っているアルバイトのことは、誰にも言えない。平たく言えば、自分がただ貧しいがために置かれた状況と戦略に、主人公自身がそれを公言できない。自らのありようを自己否定させるメカニズムがここに垣間見える。

しかし物語の展開のなかで、これは階級漫画になる。明け透けなイギリス上流階級との触れ合いのなかで、主人公は自身の置かれたあまりの「無力」さを痛感する。

 

セリーナ・トッドを参考にすれば、階級とは一つの関係だ。まぁ、これはわりかしありきたりな定義でもあるけれど、その関係が露骨に、しかし物語の確かな延長線上に、あらわれる。階級が関係であるならば、話のはじめから、あまりの格差ある二人のエピソードそれ自体が、それを乗り越える愛のあり方をめぐる、つまり  “そうでない” 関係をめぐる物語だったと言える。

でも、このことは物語が展開してみないと分からない。だからこそ、『会長はメイド様!』は、アニメ化に成功した。作品の切り取るところが違えば主題は異なってくるし、それは思想・哲学に携わるまでもなく、論じることを経験した人なら誰しもが知っていることだ。この作品は、アニメでは前半部のみを切り取ることによって、ジェンダー・イシューないしはフェミニスト戦略の転換に焦点を当てた。そして漫画全体を通じ、それらが関係としての階級という視点のなかで再解釈されていく。

関係のありようは、誰に言われるまでもなく、多様だ。経済的な格差か、もしくはジェンダーか、みたいなただ一つだけの区分けは存在しないし、実のところ、当人たちにとって、そんなものはどうでもいい。一人歩きしたそうした「形式」だけが、身勝手に引き裂いてくるだけだ。鮎沢さんも碓氷くんも、そうした、一人歩きした「階級」やら何やらに、振り回されることになった。しかし二人は一貫して、自分たちのやりたいようにやった。つまり、鮎沢さんは碓氷くんのことが好きで、碓氷くんは鮎沢さんのことが好き、ただこれだけだ。そして、『会長はメイド様!』の主題は、切り取る点がアニメが前半部のみであったとしても、変わらない。ジェンダーがイシューだとしても経済格差との格闘が舞台であるとしても、通貫しているのは、ただ単に、「でも私はこの人が好き」というものだ。

 

実はあの世界的ファンタジー小説ハリー・ポッター』も、階級をテーマにしている。この指摘自体は多分目新しいものでもないから、特に詳述するつもりはないけれど、作者のJ.K.ローリングの構想としてはおそらく、「階級を乗り越えるものとしての愛」というのが、一つのテーマになっているのだと思う。愛を知らないヴォルデモートは、その出自に絡め取られながら救いのない悪の権化となってしまった。それに対してハリーを常に守ってきたのは、額に刻み込まれた稲妻型の愛だった。

国境、性別、生活環境と、僕たちはいつも何かしらの境界線に区分されながら生きている。だけれども、その境界線自体はあくまでつくられたものでしかなくて、だからこそ修正可能性も、はたまた飛び越える余地もある。でもそれは大変な仕事だ。愛は狂気に似ている。それは境界線を軽々と飛び越えて、人をつなぐ。

最終話、2人は結婚し、鮎沢さんは外交官に、碓氷くんは医者になる。どちらも「イギリス上流階級のなかで認められるため」といった要因があり、特に鮎沢さんについては碓氷くんとより対等に近い状況に自らを置くための戦略だ(その後、強くやりがいを感じている)。一見、境界線の論理に巻き込まれたかのように見える。でも2人は、披露宴が終わるや否やヘリコプターで脱出、2人だけの世界へ入る。穴を開けられた境界線は、塞がれるとしても、決してその原型をとどめない。穴をあけるにも戦略はあり、既存の秩序にも見るべきものがある。革命ではないけれど、しかし漸進的な変容もまた不可逆的な変化のはずだ。そうしたものを描いていたのだと読んでみるのは、さすがに考えが過ぎるだろうか。

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(下書きはおそらくは半年以上前で、オチとかもなかったのを、なんとなく加筆したうえで載せました。タイトルは今つけました)