Good afternoon

基本的に乃木坂について書いていくつもりです。自分の言葉に責任を持つ気が毛頭ない人たちが中の人をしており、それが複数名います。ご容赦ください。

無感覚なとある広告について

新宿にあったという広告について。

働く場は否応なしに人を有用/無用の基準に当てはめ、あまりに多くの人を無用のカテゴリに入れる(だから対抗的な公共圏としての労働組合は本来重要である)。しかしこの広告ほどそれを「正当である」と雄弁に語るものはなく、意図的か否か、現在の政治動向と合致する。

現代の労働社会において「無用」とは存在の否定に繋がりかねない。しかしAIをはじめ人間の行う仕事の多くはいずれ機械へと代替されてゆく。アメリカの「ラスト・ベルト」においては製造業の成長率は低迷してはいないものの雇用の劣化が叫ばれていた。ロボット産業がより効率的な生産を可能にしつつ労働者の行き場所を奪い、その政治不満がトランプの言説戦略を介してあの結果を導いたという単線的な説明は、それほど大きく外れているわけでもないだろう。言い換えれば、これは社会における承認をめぐる問題なのである。
 
日本社会における「承認」をめぐる諸問題を語るとき、労働・雇用のかたちの変動を語ることから逃れることはできない。基本的に日本の雇用のかたちは欧米一般のそれと割と異なり、会社におけるメンバーシップの有無こそが問題となる(←→ジョブ型雇用)。残業が続くにしてもそれは将来生活のための社会契約であった。何より、会社内における交友関係は承認をもたらすものでもあった。そして現代まさにその雇用のかたちこそ崩れつつある。年功序列、企業福祉、終身雇用といった雇用に際する労働者の利得に対し現在悉く疑いの目が向けられている。ブラック企業や増大する非正規雇用が話題になってしばらく経つ。今、「承認」の場としてかつてあった会社という入れ物は音を立てて崩れつつある。
 
「承認」の再編成。有用/無用のカテゴリ化の衝動は労働者に自らが「有用」であることを社会に対し示し続けさせることを要請する。「会社に対し」と「社会に対し」はここにおいてイコールとなっている。よって、自らの市場価値(この言葉それ自体でさえ!)を高めるということは、現代日本社会における倫理的要請なのだ。そして言うまでもなく、この広告は現代日本社会の強いる倫理的要請を、まさに国策と結びつけるものである。製作者の矮小な意図など遥かに超え、それは労働を「戦争」と呼ぶことにより「総動員」としてのあり方を強調する。すなわちこの倫理的要請は日本国民全員に対し、自己の絶えざる有用化=市場価値の向上を訴えかけている。ここで読者は既に「一億総活躍」なる国策のひとつを思い出している。
 
こういう無感覚な広告が跋扈することもまた、有用/無用のなかで肯定されていくのだろう。供給者の論理はこうである。「今は技術も発展し、5年後に自分よ仕事があるかさえ分からない世の中だ。そして戦争という言葉はその深刻さと供に誰しもに響く。だからこそこの広告は有用である」。なるほど主体も個人も有用/無用のカテゴリのなかでのみ配置されその論理でのみ遇されるという点においてまさに現代日本社会は「戦争」の様相を呈している。この「戦争」においてはあらゆる主体も個人も失効するがゆええに誰も責任を取ることはない。
 
この広告はスーツ会社によるものである。戦闘服という見地から肝心なこととして、デザインの統一性をまずスーツは可能にしている(ここで思い出すべきは、ホワイトカラー男性の仕事着として想定されるのがスーツであるのに対し、女性はより多様であるということである。このことは単に女性に「メンバーシップ」を与えない日本の雇用社会の残滓であるが、しかしこの広告において女性は「戦争員」としての承認を受けている。「女性の活躍」!)。通気性についていえば湿気の多い日本ではマイナスに働くことが一般に想定されるも、しかし押し付けられた痛みの共有は連帯を生みうる。何より戦闘服として見逃せないのは、これまでの戦争史における軍服の「お洒落さ」であろう。そう、本稿の役割は何もこの愚劣無感覚極まる広告の批判にでなく、「サイレント・マジョリティー」で一役有名となり、その歌詞内容においてはリベラルも一部が多くかが合意、しかしハロウィン・パーティにおいて制服がナチスのそれに類していると多大な批判を受けながらも念願の紅白初出場を果たした欅坂46、それをめぐる言説を理解するための補助線を引くことにある。
 
どのような背景があろうとも、それは確かに「かっこいい」のだ。しかしその「かっこよさ」は何によって果たされたのか、どのような目的のために果たした結果であるのか、このことを失念してよいのだろうかというのとこそが、ハロウィン・パーティでの批判から紅白出場にかけて問われていたことなのである。すなわち問われていたのは歴史への感覚の有無を社会が引き受けるか否かである。この広告はそうした問いの延長線上にあるものと見るべきである。今まさに、スーツは文字通り「軍服」としての意味を付されようとしているのだから--誰も責任を取る気はないままに。