Good afternoon

基本的に乃木坂について書いていくつもりです。自分の言葉に責任を持つ気が毛頭ない人たちが中の人をしており、それが複数名います。ご容赦ください。

くらった本①丸山眞男著/杉田敦編(2010)『丸山眞男セレクション』平凡社ライブラリー

随分前に書いた文章がそんな悪くなかったのでとりま公開します

 

 

このブログを読んでいるクソ暇なあなた(ありがとう!)に一応伝えておくと、僕は何かしら思い当たったことをもってはじめの一文を決めてみて、そこから文章をとりあえず書き、最後にタイトルをテキトーにつけるというスタイルを取っている。これは他のオフィシャルな文章についても同じなので、習性とも言っていい。今回紹介する本ではないけれど、高橋の源ちゃんが随分昔に書いた『一億三千万人のための小説教室』という講義録には、「書き始めが一番大事なのだ」みたいなことさえ書かれてあるので、とりあえずはじめの一文が思い立った時点でまず始めてみるというのは、そんなにズレた戦略ではないと思い込んでいる。

何の話だ。

今回は、タイトルから先に決めた。そういえば大学院生と言っているくせに、それっぽい話をまるでしていないじゃないかと思ったし、そもそも、なんとなくそんな感じの話をしてみたいと思ったからだ。

そんなわけで、「くらった本」シリーズをやってみたいと思う。ただし、面倒で続ける気になるかはわからない。今日書くものの他には、栗原彬『「存在の現れ」の政治』やドゥルシラ・コーネル『 “理想”を擁護する』、ジョルジュ・バタイユヒロシマの人々の物語』に向山恭一『対話の倫理』、シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』、ジョン・デューイ『公衆とその諸問題』、なだいなだ『権威と権力』、見田宗介『まなざしの地獄』、いとうせいこう『想像ラジオ』とかを考えてはみているけれど、これだけで僕の読書傾向がバレそうなので、やめることにする。これらの他にもくらった本はたくさんあって、そのうちのいくつかは意図的に出していない。今日にかんして言えば、僕は別の本の話をしたいからだ。

 

まずはじめに僕が「くらった」のは、紛れもなく丸山眞男の作品集である『丸山眞男セレクション』だと思う。2、3年前に岩波文庫から3冊ほど丸山シリーズが出ていたけれど、丸山の作品が最も要領よくまとまっているのは、これだと思う。杉田敦さんの解説も重厚で読み応えがある。もちろん「これも入れてくださいよ杉田先生」と思うとこはあるけれど、どのみち僕にとってこの一冊が丸山の始まりだったし、ひょっとしたら、政治学の始まりだったとさえ思う。

お気づきの方もいると思うけど、僕はここで書評じみたことをするつもりはない(ええっ!!?)。そう、僕はただ、この本にくらったんだよー、えへへー、くらいの話しかするつもりはないのだ。

 

この本を知ったのはかなりの偶然だった。僕は当時国際系の学部に所属していたのだけれど、授業で最大公約数的に出てくるビッグ・ネームが丸山だったのだ。勉強熱心なフリだけは超一流だった僕は、迷わず丸山の名を検索し、どうやらこの本を読めば都合よくその議論を摂取できるらしいと踏んで、高い金を払って購入したのだ。「セレクション」というのだし、しかもあの杉田さんセレクトなら間違いないという雑な理由だ(それにしても、ソフトカバーでこの値段は高い)。

そして購入、読み始めたのだけど、はっきり言って、よくわからなかった(今でもよくわからないのはここだけの秘密)。ただ、丸山にはいくつかの重要な特徴があった。まず、日本語が上手い。圧倒的に上手い。無駄がなくシンプルで文体も流麗、僕にとっては難度によらず読むのに苦がなかった。そして、丸山は政治学だった。当時は政治学のゼミを聴講していて、その時のテーマが「公/私の区別」だったから、天皇制原理が個人の内奥に云々みたいな話はエキサイティングな思いで読んだ記憶がある。そして何より、丸山はテンションが高かった。丸山は政治学者としての基準を示そうとしていたその一方で、民主主義者としての独自の迫力があったのだ。

多分一番読んだのは「政治的判断」だった。タイトルの通り、まっとうな政治的判断ってなんだろうねという内容なのだけど、僕はこれこそが政治学であると確信し、何度も何度もページを開き、汚いメモを取っていた。他には「三たび平和について」か。僕はこれらの作品のなかで、政治的なリアリズムを追求すること、ゆえに狡猾であることについて思考し、それらが平和主義という理想と何ら矛盾のない「戦略」であることを学んだ。その裏側の物語の腐敗を知らない鮮度と共に。ただし、これらは「夜店」だった。続編を読みたかった僕は、『丸山眞男集』の面白そうなセクションをコピー・ファイリングし読み込むという生活を始めた。

 

今にして思えば、丸山の政治学は人間の情動的な部分をいささか見逃しているように思えるし、その部分的な発露は、苅部直『ヒューマニティー政治学』の「仮面」のたとえにも現れているように思う。仮面舞踏を楽しむというのは理屈としてはわかるけれど、それって辛いものがあるのではないか。また、舞踏会の独自の文化が排他性を孕むこともあるだろう。このことは、ハバーマスの公共圏論にたいするフェミニストたちの反論(その代表的なものとして、ナンシー・フレイザー「公共圏の再考ーー既存の民主主義の批判のために」グレイグ・キャルホーン編『ハーバマスと公共圏』を参照)を思い返せば秒でわかる。ラクロウのポピュリズム論を思い返す人もいるだろう。かつ、丸山の議論はそもそも「日本的」なのかという従来的な問いも有効だろう。現在の知的水準からして、丸山の議論をそのまま踏襲して偉そうにするのは、いささか無理がある。

ただ、そんなことはみんな分かっている。僕がそれでもなお丸山に学んだのは、丸山のテンションの高さだ。彼は本気で基準を示そうとしていたし、本気で民主主義を日本に根付かせようとしていた。僕は当時政治学なる学問を学び始めた頃で、「政治には、独自の考え方があるんだよ」と言われても「知らんがな」としか思えないような奴だった。僕に政治学を教えてくれた大恩あるその先生は、今にして思えばかなりのセクシストで、僕はいくばくかの違和感を覚え「こういう人間にはなりたくないな」と思いつつ、でもその人の学問的知見にも敬意を隠さずにいた。他方で僕の専攻はゲーム理論を軸とした新古典派経済学(の、多領域への応用)であり、もともとrationalな議論が好きという、ややこしい面も持ち合わせていた。丸山の論調は、少なくとも僕の肌感としてはピッタリ来たし、当時の僕の関心にもフィットした。

僕は政治学を丸山から学んだつもりでいるし(その割には、いささか劣等生なのだけど)、その意思を曲がりなりにも引き継いでいるつもりではある。何より僕は、当時の学部において丸山をありとあらゆる奴に読ませるなどしていた(この点に限定して言えば、我ながら良いことをしたと思っている)。その始まりがこの本だった。この本には丸山の、代表的なものがほぼ全て詰まっていると言って良い。この本を初めて読んで数年が経ち、埃程度の知見を蓄えた今でも、同じことを思ってはいる。

 

もし僕が編者の杉田先生に注文をつけるとすれば、あと2つ、丸山をダイジェスト的にも知るためにも、加えて欲しかったものがある。ひとつは「科学としての政治学」だ。これは丸山が大日本帝国からの「解放」をもって、ようやく日本で「科学としての政治学」が花開くのだと宣言した論考だ。おそらく、これを読まずして丸山のあの論調は理解できないのではないかと思う。丸山にとって政治学の基準を日本において示すことと、民主主義者としてのそれは、実は何ひとつ矛盾していなかった。

そしてもう一つは、「現代における態度決定」だ。これらは、どちらも『政治の世界』に収録されている。僕の説明はきっと、丸山の美しさを汚してしまうから、残りは引用だけで終わりにする。でも、もしここまで読んだクソ暇をこじらせた読者がいるならば、どうかこの論考をはじめから終わりまで通しで読んでほしいと思う。分かる奴には分かる、だなんて甘えではない。分からない奴にも分かる。僕はこれ以上に美しい日本語を知らず、これを形容する思いつく限りのすべての表現が陳腐に思えてさえしまう。僕は丸山の読者というには足りぬところがあまりにあるけれど、しかし僕を形成したその一部に丸山があることを否定はできないし、光栄にさえ思う。

今日は憲法記念日であります。憲法擁護ということがいわれますけれども、憲法擁護ということは、書かれた憲法の文字を、崇拝するということではありません。憲法擁護ということが政治的イッシューになっているということはどういうことか。この状況のなかで、私たちはどういう態度決定というものを迫られているか。憲法擁護ということが書かれた憲法というものをただありがたがることでなく、それを生きたものにするということであるとするならば、それを裏返しにしていえば、憲法改正ということーーよく改悪といわれますが法律的には別に正ということはいいという意味ではないので正といっておきますーー、憲法改正ということは、政府が正式に憲法改正案を発表したりあるいはそれを国会にかけるその日から始まるわけではありません。ちょうど日本国憲法が成立した瞬間に、その憲法が現実に動いているのではないと同じように、憲法改正もすでに日々始まっている過程であります。この日々すでに進行している過程のなかで私たちが憲法によって規定されたわれわれの権利というものを、現実に生きたものにしていくために日々行動するかしないか、それがまさに憲法擁護のイッシューであります。

われわれはどちらにコミットすべきなのか、憲法の九七条には御承知のように「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」とあります。今日何でもないように見える憲法の規定の背後には、表面の歴史には登場して来ない無名の人々によって無数の見えない場所で積み重ねられていった努力の跡が蜿蜒と遥かにつづいています。私たちはただこの途をこれからも真直ぐに堂々と歩んで行くだけです。短かい時間で意を尽しませんがこれで私の話を終ります。