Good afternoon

基本的に乃木坂について書いていくつもりです。自分の言葉に責任を持つ気が毛頭ない人たちが中の人をしており、それが複数名います。ご容赦ください。

なんでもない話

やるべきことを一通り終え、いま僕はかなり自由な時間を過ごしている。嘘だ。それなりに忙しく、その合間合間で、結局僕は好きな本を好きなように読んでいる。

個人的には、買ったタイミングが重なり、グラットン/スコット『ライフ・シフト』と磯部涼『ルポ川崎』を同時に読んだ時にクラクラする思いがした。なるほど「人生100年」言説は事実日本にも取り入れられており、働き方そのものの再編が求められている。ただしそれが一部の人のお気楽な道楽になってしまっては話にならない。格差は拡大し、東京と横浜という大都市に挟まれた場所では、そこが日本であることを疑ってしまうような現実が日常となっている。

ヴォーゲル『日本経済のマーケットデザイン』(原著ではmarketcraftらしい)、マクミラン『市場を創る』、そして言わずと知れた『貧乏人の経済学』は、あえて引きつけていえば、いかにして「ご当地モデル」をつくっていくかという話でもある。市場が適切な働きをするよう促すことは避けるべきではない。しかし、市場をいかなる方向につくっていくか、そこに規範的な要素をいかに取り入れていくかは、政府の介入あってこそという面がある。とはいえ、政治でしばしば見られる「べき」論は、往々にして現場の状況とは無関係に交わされる。いかにしてそのニーズを読み取り、適切な支援をしていくべきか。

個人的には、地方分権が改めて求められているような気がしてならない。

 

 

現場の声というのは実は結構ややこしかったりする。分かりやすい例で言えば、賃金がある。

基本的には、拘束時間に対する所得で賃金は見なくてはならないため、時給それ自体は構成要素の一部に過ぎない。再賃上げには僕も賛成なのだけれど、そのことが労働時間短縮戦略と合わさったら、「これだけの時給なのだから」言説と交わって、むしろマイナスになりうる。ケンウォシーの発見の偉大さは、最賃の額よりも労働時間の方が貧困改善にとっては重要であるということにあると思っている。雇用時間の確保が何よりもまず問われるべきなのだ。

それを如実に表すのは、恐らくは近年見られる残業時間削減方針だろう。実はこれは、ホワイトな企業にとっては微妙な効果をもたらしうる。ホワイトな企業は残業代が適切に支払われるので、単純な労働時間削減政策はむしろ所得上昇のための戦略的な残業を減らし、結果として労働インセンティブを損ないうるためだ(もっとも日本では、サビ残をはじめとして、労働時間が給与に反映されてこなかった経緯がある。残業時間を減らすには当然の背景があるし、ケンウォシーの射程にも限界はある)。つまり、「残業代を払え」もまた重要となる。

どうしたって市場のお話なので、労働者の生産性向上インセンティブを、いかに真っ当な前提をもって高めるかが論点になる。ただ、雇用時間の確保と、残業代支払え言説は、脱商品化を唱える論者からすれば(繰り返せば、そこには確かな背景がある)受け入れにくいとは思う。そして、(言説)政治戦略としては、短期ベースでいかに人々をまとめるかって論点がどうしても欠かせないので、左派リベラルに不人気な「第三の道」的言説を中軸に吸えるのは難しいし、好ましくもない。ここが悩みどころで、結果として、民間に頼らざるを得ない状況が出てくる。

 

「べき」論は政治の世界ではしばしば単調なメッセージとなり、理念的な対立として顕在化する。しばしば「このイシューは大事なのだから、政争の具にするな」といった声が出てくるが、この指摘は一面では正しい。でも、調達すべき合意を調達せぬまま政治から遠ざけてしまえば、正当化のプロセスが曖昧化してしまう。

一方で、全国的な合意形成もまた難しい。小選挙区制だからと単純化するつもりはないが、特に近年はポピュリズム・ブームで(日本も例外ではない)、ハタから見れば分極化のきらいがある。長期的な展望を政治がいまいち描けないなかで、不平等は目の前にあるものとなっている。

地方分権が求められる所以である。ネオリベ的な国家の役割を安価に肩代わりさせるためでない、地方により権限とお金を委ねていくタイプの地方分権だ。地方には様々な人や団体があって、独自の試みを展開しているから、行政といかに連携していくかも重要だろう。民間のアイディアみたいな話と引き付ければ、公的支援を土台とした準市場的なやり方には希望がある。とすれば、理念的な足場としての普遍主義は徹底すべきだろう(もちろん、地方分権、準市場、普遍主義というのは、『世界』での大沢真理武川正吾・宮本太郎対談の、宮本氏の発言を参照している)。

しかし問題は、いかにして普遍主義的な足場をつくっていくかだ。政策リストを掲げることは重要だが、たとえば子ども手当は、まさにその普遍主義的な性格が争点化し、最終的には所得制限をもつ児童手当へと「退行」した。いわゆる「自己責任論」から財政逼迫言説に至るまで、社会保障支出を削減するための理由づけには多大な項目がある。しかしその足場が無ければ、国家の役割はかなりのほど疑われる。

 

最近、介護に携わる人たちのお話を聞く機会が多いのだけど、しばしば「自立支援」という言葉を耳にする。介護保険法にそう書かれてあるからなのだ。大学院でお世話になっている先生は、公務員には憲法遵守義務があるため自身がやっていることの説明が楽(「憲法に書いてありますから」)なことが多いという公務員の人の話をしばしばしていた。

まぁ、人によりけりなのだろう。しかし、制度に埋め込まれた理念というのは、仮にそれが綺麗事であったてしても、アクターを拘束する。そしてそれは、綺麗事であるべきなのだ。ドゥルシラ・コーネルなら、それを「理想」と言ったかもしれないけれど。