Good afternoon

基本的に乃木坂について書いていくつもりです。自分の言葉に責任を持つ気が毛頭ない人たちが中の人をしており、それが複数名います。ご容赦ください。

穴を開ける

新年度が始まり3ヶ月目に突入したわけだが、実はこの間、僕の生活環境は大きく変わっていて、それは僕に読むべき本や思考のスタイルをはじめとした種々の変化を強要する類のものだった。事実今僕のいる現場はどちらかというと、言葉がなかなか通用しない方に区分される。Aと言ってもAは伝わらず、Bを求められたから提供しても実はCであったことが数日後に判明し、Dという欲求を当の本人が自覚していない、そんな場所だ。

そしてこれは他ならぬ僕たち自身の話でもあった。僕の最近の雑感は、「認知症が分からない」だ。なるほど脳の症状である以上、それはその人の認知機能に独自の影響を与え、ディスコミュニケーションを生じさせる。でもそれは別に「健常者」の世界でも往往にして起こることだ。なるほど便意はあるだろうし、部屋の整理も着脱衣も、基本的には自己の管轄内にあるだろう。しかしヨリ細かく見れば、そこに病理を理由にした明確な断絶のないことに気づく。プライドに抵触した、自分流のマナーに反した、小馬鹿にされた気がした、何でもいいけれど、それだけで僕たちの応答関係は途絶える。認知症の人の生きにくさを生み出しているのは、他ならぬ「健常者」を自称する僕たち自身であることは、言うまでもなかろうか。

今はどうか。なかなかどうして、日本政治は財政難を理由にした社会保障支出の抑制を好む傾向にあるようで、借金返済とやらを言い訳にした「予防」策の強調——それも文字通りの意味で「無根拠」な!——が、あろうことか「共生」と並べられる有様だ。言うまでもなくそれは認知症の人へのスティグマに基づきつつそれを強化する類のもので、当然許容できるものではない。加えて「人生100年」言説は現役世代/高齢者という、それ自体褒められたものではない二分法を、できる人/できない人という新しい区分けに更新することによって新たなる階層化を助長しうるように見える。交通事故は車という生きがいを無条件に奪う方向に働き、挙げ句の果てには悪質なビジネスが職務を放棄して孤独死を生み出した。生産的でないから、コミュニケーションが通じないから、そんなふざけた理由で、国家的な都合をももって、白い目で社会的に眼差されることが規範的に正当化される道はないだろう。しかしその視点は既に我々のなかに埋め込まれている。

ならばこそ僕たち自身の社会そのものが変化を強いられている。即ち、異なった人が、異なったまま生きることのできる社会。(ネオ・)リベラルな展望の跋扈する現代政治を思い出す度に僕が不思議がるのは、どうして彼らは、人間を起きて飯を食って寝る生き物だと盲信しているのだろうということだ。現場に立ったことのある奴だけが、その意味を理解している。今日は、小さな部屋をはしゃぐ子どもの姿を一緒に思い出して、乾燥気味の目玉に、勝手に湿り気を与えていた。

 

(追記)

認知症予防の数値目標をめぐっては、その後関係者団体の働きかけ等もあり、取り止めの方向になったそうです。このこと自体は非常に重要でありかつ喜ばしいニュースですが、しかしなぜ数値目標が記述されようとしたのか、その過程は問われ続ける必要があります。加えてこの間、年金をめぐり金融庁の提出したペーパーが「炎上」し文字通り政府は「火消し」にかかっているわけですが、政府責任としてはそもそも説明責任を果たさねばならないわけでこれは選挙に影響を与えざるを得ないであろうということと、本記事との繋がりで言えば、この件は、いかなる老後のビジョンなり期待、希望なりを社会的に共有していくかという点に関わります。安心できる老後がそこにあるか、それを社会的な繋がりのもとでつくれているのか。社会制度のもとで未来への展望を描けないのであれば当然諸個人は自己責任下で自身の保護に走らざるを得ないわけで、社会の崩壊は必至です。そこに、いまスティグマを貼り付けられている人たちの場所はあるのか。

タイトルは今つけました。特に深い意味はないです。