Good afternoon

基本的に乃木坂について書いていくつもりです。自分の言葉に責任を持つ気が毛頭ない人たちが中の人をしており、それが複数名います。ご容赦ください。

所謂「透析中止の件」についての私見

これに関しては近々メモ程度にでも書かなければと思っていたのが、ここまで長引いてしまった。ひとえに怠惰ゆえである。というわけで、透析の件についての現時点での私見を簡単ながら述べてみたい。

 

まず、僕がいかにこの「問題」を特定しようとしているのかを示し、特に「インフォームド・コンセント」の問題として論じることを示したい。次に、こうした情報提供のありようは医療サイドからの一方通行によるものでない、「共に決定する」過程それ自体に焦点が当てられる必要があることを主張する。そして、医療サイドの問題はありつつも、こうした過程分析のための素材が揃っていないことを述べたい。そして最後に、残された規範をめぐる問いについて言及することにしたい。

 

1、はじめに

東京都福生市羽村市、瑞穂町で構成される福生病院組合が運営する「公立福生病院」(松山健院長)で昨年8月、外科医(50)が都内の腎臓病患者の女性(当時44歳)に対して人工透析治療をやめる選択肢を示し、透析治療中止を選んだ女性が1週間後に死亡した。毎日新聞の取材で判明した。病院によると、他に30代と55歳の男性患者が治療を中止し、男性(55)の死亡が確認された。患者の状態が極めて不良の時などに限って治療中止を容認する日本透析医学会のガイドラインから逸脱し、病院を監督する都は6日、医療法に基づき立ち入り検査した。(『毎日新聞』2019年3月7日朝刊より一部抜粋)

 

早速引用したこれは毎日新聞によるスクープで、内容は読んでの通りである。報道によれば、女性は「透析は、もういや」として中止を選択、また外科医は「透析治療を受けない権利を患者に認めるべきだ」「十分な意思確認がないまま透析治療が導入され、無益で偏った延命措置で患者が苦しんでいる。治療を受けない権利を認めるべきだ」と話しており(『毎日新聞』同上)、一見、透析治療を受ける女性の意思に外科医が柔軟に対応したように見える。

 

しかし毎日新聞のこの報道は瞬く間に「炎上」した。大まかな理由は3つある。一つ目は、この決定が日本透析医学会の2014年ガイドラインに反しているためだ。ここでは透析治療中止基準について「患者の全身状態が極めて不良」「患者の生命を損なう」場合に限定しているようで、本透析医会の宍戸寛治・専務理事は「(患者の)自殺を誘導している。医師の倫理に反し、医療とは無関係な行為だ」と批判していた(『毎日新聞』同上)。「終末期患者でなかった」というのもこうした議論に該当すると言って良い。二つ目は、透析中止について家族の理解を得れなかったということだ。この点について、女性の夫が毎日新聞に多くコメントをしているので参照されたい。そして三つ目は、患者当人の意思変化が透析中止過程で見られたことにある。この、2つ目と3つ目の点について見るべきは、毎日新聞の以下の報道である。

 

15日夕。女性の苦痛が増した。夫によると、女性は「(透析中止を)撤回できるなら、撤回したいな」と明かした。夫は外科医に「透析できるようにしてください」と頼んだ。外科医によると、女性は「こんなに苦しいのであれば、透析をまたしようかな」と数回話した。外科医は「するなら『したい』と言ってください。逆に、苦しいのが取れればいいの?」と聞き返し、「苦しいのが取れればいい」と言う女性に鎮静剤を注入。女性は16日午後5時11分、死亡した。(『毎日新聞』2019年3月7日朝刊より一部抜粋)

 

この記述からも明らかなように、透析中止過程で女性の意思は部分的に変化している。これに対し家族は透析再会を要請したが、医師と女性とのコミュニケーションを経て、透析中止継続が決定されている。これらの点に加え、公立福生病院が透析の非導入を他患者に対し行っていたこと、倫理委員会を開いていなかったこと、他選択肢として「腹膜透析」を示さなかったこと(『毎日新聞39日朝刊、なお後述するがこれは問題だと考えている)等が問題視されている。なお、一部ではこうした決定を長谷川豊氏の「透析患者は殺せ」論や昨今の「終末期医療に金がかかる」論と符合するものであり医師の見識が問われるといった声もあるが、そこの因果関係は一切明らかになっておらず、「透析中止の権利」を言説として捉えれば、むしろ医療延命主義への批判として好意的に受け取ることもできることもあり、当該医師及び病院の方針についての調査は報道関係者に任せるとして、ここでは特に考えないことにしたい。

 

さて、一つ目の議論については、一律的な患者への応対を迫りかねないものだし、ガイドラインに反しているからといって透析中止を示すべきということにはならない。むしろ問われるのは、上述の「患者の意思を誘導しているのではないか」といった議論である。二つ目と三つ目の議論が、こうした点について示唆的である。これらは医師と患者(及び家族)との対話のなかで医療方針を決定していくという、一般に言う「インフォームド・コンセント」の問題を含んでいる。次に、インフォームド・コンセントが持ちうる問題とその乗り越え方について見てみよう。

 

 

2. インフォームド・コンセント科学技術社会論的解釈(?)

周知の通り、インフォームド・コンセントは「説明を果たした上での同意」を意味する。ただし説明を「果たす側」と「果たされる側」とに二分される以上、この用語は科学技術社会論で言われるところの「欠如モデル」に依拠している面がある。欠如モデルとは、大まかに言えば、「あなたは知識が“欠如”している、だから専門家がそれを埋めますよ」というものだ。これに対する科学技術社会論の大まかな解答は、あくまで欠如モデルに依らずに、いかにして民主主義的な意思決定への参加が市民には可能か、という論立てをすることにある。すなわち、市民には学習能力があり、また意思決定への参加の権利及び能力があり、実際に参加すべきであるがゆえにそのための場をいかにして設計していくかという点に議論を開いていく必要があるといことだ。以下では、こうした科学技術社会論の視点を、可能な限り踏襲してみたい。

 

さて、こうした観点からインフォームド・コンセントをいかに問い直せるだろうか。まず、説明を「果たす側」と「果たされる側」という二分法は少なからず修正される必要があろう。そもそも医療方針の決定が患者の身体のありようにかかわるものである以上、求められるのは、意思決定過程それ自体の共有、いわば「共に決めること」である。とすれば医療サイドは、情報レベルでの十全な説明責任が求められるのはもちろんのこと、患者が意思決定に参加できるための基礎的条件を整えることも求められる。また、医療サイドが患者とのコミュニケーション過程で抑圧的に働かないことも重要となる。さらに患者の意思が発せられる場の多元化も重要だろう。次に重要なのが、そもそも患者がいかなる主体として捉えられているかという点である。そもそも毎日新聞の報道では、女性は透析中止の意思を示したが、正常時の判断をヨリ信頼して透析中止を継続したという流れになっている。しかし、一般的に言っても意思は往々にして変容するものである。

 

加えて、認知症者や、また知的/精神障害者といった、いわゆる「正常な判断ができない」者としてしばしば社会からまなざされる人々は、こうした医療サイドの理屈では、そもそも「正常な判断」ができないがゆえに意思決定への参加を阻まれる恐れがある。特に透析中止といったケースについては、容態に伴う判断基準の急変といった事態が生じうるため、この場合、患者は事態が急激であるがゆえに新たな関係を築くことが難しいことが予想される。よって、透析中止決定以前にいかなる関係性を医療及び介護サイドと築けているかが、問われるべきポイントとなろう。

 

このように考えると、一般に「インフォームド・コンセント」と言われる合意形成のありようは、つまるところ意思決定にかかわる過程それ自体であると考えることができる。よって、報道のなかで問われるべきは、透析中止の是非を巡る議論と共に、それをめぐる過程そのものである。以下では、スクープを報じた毎日新聞の報道に焦点を当てて、この過程分析がどのように行われているかについて見てみたい。

 

 

3. 過程分析への注目とその現時点での限界

といっても、それは無理だ。なにせ、毎日新聞はその点についてはほとんどきちんと報道しきれていない。まぁ、現在進行形で頑張って裏を取っているのだろうし、それを批判する意図は毛頭ない。とはいえ、過程分析にあたり重要な材料はいくつかある。決定的なのは、次の報道である。

 

公立福生病院(東京都福生市)で外科医(50)から人工透析治療をやめる選択肢を提示された女性(当時44歳)が死亡した問題で、女性に対して「腹膜透析」という別の治療法の説明はなく、「血液透析」をやめるか続けるかという二つの選択肢しか示されなかった。透析治療に詳しい関係者は「医療を受ける患者の権利が奪われている」と指摘している。(『毎日新聞』同上)

 

前述したこの報道、すなわち医療サイドが患者に対し代替策を示さなかったという点については、大いに批判されるべきだと考える。というのも、「共に決める」過程のなかで代替策が提示されていなかったということは、患者の参加能力それ自体を損なう行為だからである。もちろん、この女性が腹膜透析を提示されたとしてもそれを飲まなかった可能性は大いにある。しかし、情報が提示されていたかされていなかったかの違いは大きい。アマルティア・センのよく知られた議論を援用すれば、患者が損なわれたのは、capabilitiy(潜在能力)であると判断できる。もしその機会が実効的なかたちで提示されれば選択できたかもしれないが、その機会が閉ざされていたがゆえに、患者には選択の余地さえ与えられていなかった。これは「共に決める」ことの条件を覆すものである。

 

さらに、家族の同意を得られなかったことも問題視されるべきだろう。たとえば同月12日の毎日新聞の報道によれば、長男も透析中止の継続を知らず、後悔が残っているという。もちろん、どの範囲に自身の容体に関する決定を知らせるかというのは患者当人が最終的には決定することである。しかし生はその人だけでなく、良くも悪くも「他人ありき」であって、人は一人で死ぬことはできない(cf. 西谷修『不死のワンダーランド』2002、青土社)。加えて、これは非導入のケースであるが、「患者の家族から『死ななくて済む方法があるのに、なぜ死を選ぶのか』という疑問が出た場合には、患者本人に家族を説得してもらった」という報道もあるなど、患者本人に説明を押し付けていた恐れのある面も見受けられる(『毎日新聞』2019年3月8日朝刊)。仮に医者と患者の対話的過程を経た結論であったとしても、その帰結を患者一人に委ねるのは、患者当人にとって「自分(たち)の下した決定なのだから」という、いわば宿命づけられた決定を押し付けるものとなりかねない。また、欠如モデルに従わないとしても、市民の専門知欠如は事実の問題だし、こうした点について、家族を含めた、共に生きる人との意思決定のありようについては突き詰めて考えられる必要があったはずだ。

 

おそらく決定的なのは、「都は、女性が何度も治療中止を撤回したいと訴えたにもかかわらず、外科医は治療再開の要請を聞き入れなかったと認定」し、苦痛のため患者が透析中止という従来の決定の変更を提案したにもかかわらず「外科医は治療を実施せず、最終的に女性との意思疎通が難しくなった際、夫(51)も治療再開を外科医に要請したが、聞き入れ」なかったという報道だろう(『毎日新聞』3月20日朝刊)。報道を見る限り、毎日新聞はまず問題化させた上で東京都という資源をもつセクターを動かしたと見ることができようが、まぁそれはこの際どうでもいい。この調査結果から受け取れるのは、福生病院がしかるべき説明責任を果たしていなかったという疑念が深まったということである。

 

とはいえ管見の限り、過程分析についてはこれらの報道が示すのみであり、仔細と呼べるほどの材料は揃っていない。少なくとも現時点では、医療サイドの決定に関し問題である/問題でないといった立場表明をすることは難しいと言わざるを得ない。ここまで示したのはあくまで問題発見の参照となりうる論点のみであって、事細かな過程分析として十分とは言えない。今後も調査は継続すると思われるので、それを待つ他ないのだろう。

 

 

4. この「問題」をいかに考えるべきか

さて、ここまで透析中止をめぐる毎日新聞の報道を参照に、主に科学技術社会論の知見を少しばかり借りながら、考えてきた。その上で、規範論と共に過程それ自体に注目すべきであるが、いくつかの論点は提示されておりそのうちのいくつかはあまりに問題含みであるとしても、やはり肝心の過程についての報道が欠けている面があるということについて触れてきた。また、現時点で過程分析を経ずして拙速な立場表明を行うことの危険についても示唆できたのではないかと思う。この透析中止の件は昨今の死生学的な議論も含み得るものであり、単なる非難が医療延命主義を助長させかねない恐れをもつためである。都の調査を含め、仔細な検討を経た後に、立場表明が正当なものとなるのは間違いない。

 

最後に考えたいのは、残された規範をめぐる問題である。もちろんこの点についても過程分析を経ないことには始まらない面があるが、しかし透析中止をめぐっては、確かに長谷川豊的な言説が事実としてある以上、目を背けるわけにもいかない。さらに財政危機言説が終末期医療を抑制する方向へと舵を取るのも最新のトレンドとなっている。これらの議論が規範的に許容しうるものでないことは論を待たないが、ではいかにして規範的に捉えればいいのだろうかという問題は残る。この点について、毎日新聞で連載をしている宮本太郎氏の議論が重要なポイントを提示している。以下、引用しよう。

 

私が恐れるのは、当事者への同情を装い、最後は苦しみたくないという当然の感情につけこみ、「生きるに値しない身体」というレッテル貼りが広がることだ。ピンピン生きてコロリと逝くことを「PPK」などと呼ぶ。医療経済学者の二木立氏はこれを差別的表現だと言うが、たしかにそうだ。これから私たちの多くは、ピンピンとコロリの間の長い時間を生きる。その時間を少しでも輝かせ苦しみを軽減することこそ、社会と医療の本来の課題ではないか。(『毎日新聞2019323日朝刊)

 

宮本氏の議論はシンプルであり、それは次の2点に集約される。それは、①人は誰しも「余計者」として扱われるべきではない、そして、②人は誰しもイキイキと生きることが保障されるべきである、ということである。当然といえば当然だが、しかしこの2点は現代に至るまで社会福祉学の中核的な問いである。②について、医療サイドは的確な情報提供をしきれていたのだろうか。そして、①は社会的な問いである。福生病院にその意図があったかどうかはわからないし決めつけることも現時点では不可能であるが、「余計者」をめぐる問いは今の日本では無視しえない問いだろう。貧困家庭の子どもは趣味を諦めるべきと言われ、少しでも「外れた」行動をした者に左派/リベラルが無自覚的な医療モデルをこじらせてサイコパスの烙印を押し、生活困窮者には自己責任のレッテルと責任意識が押し付けられ、国家財政の名の下に分配上の不公正が生じる。

 

皆で「共に決める」ことは一般的な感覚から考えて難しいだろう。しかしその理想を擁護することを諦める理由はない。そのための条件として過程分析があるとしても、実は規範的にも、透析中止の件は人の生の経験それ自体をいかにして捉えるかという問題を残している。そうであるがゆえに、スクープを報じ問題化させた毎日新聞には一定の分析と結論の提示を求めたいと思うのは、マジョリティの傲慢なのだろうか。