Good afternoon

基本的に乃木坂について書いていくつもりです。自分の言葉に責任を持つ気が毛頭ない人たちが中の人をしており、それが複数名います。ご容赦ください。

みんなと生きる

というのは大変なことだと思う。共生って言われても実感ないし。あの人の〇〇が気に入らないとかよくあるし。変わってくれりゃいいのにと思ってもまあ変わってくんない。言ってたらこっちがファシスト扱いされる。

色々なアプローチがあるなかで政治学は、異なるみんな(というのはわりかし「民主主義論」的な前提かもしれないけれど)が生きる政治社会のルールを作ったり消したり調整したりとか、そういう過程に目を向ける癖があるように思う。違うもんは仕方ない。だから、みんながうまくやっていけるよう、ルールの方から考えていく。あるいはこれはしばしば法律学と同じ学部にある日本の政治学的な考え方なのかもしれない。

ルールの話だからどうしても権力の話が出てくる。だってルールに効力がないならそもそもルールとして成り立たないから。でも待って、ルールって法律とか社則とかだけじゃなくて、それこそ友達同士とかでもある。先輩後輩とかでもある。上のもんを立てろみたいな暗黙のやつが。忖度みたいなのを強いられているとしたらそれも権力と言えるかもしれない(まあ言えるのだけど)。

ルールといってもどの範囲の話やねんという話だってある。その範囲自体をどう設定するかも権力問題だし、逆に、我々だって関わっているんだぞというのも、その制度が公共性を問われる案件としてよく出てくる。まさに参政権拡大は我々も政治社会の設計に関わるべきだという理念的な面を多分に含んでいる。労働組合もあるいは会社ないし企業社会というあえて言えば政府よりもダイレクトに生活にかかわる問題について発言権を得ようという試みとも言える。

こうした諸問題を抱えながら政治は進む。ルールの策定過程。でも多くの人はどうしたって思う、「そんなことしてないであの人がちゃんとしてくれさえすればいいのに」。これは組織あるあるだろう。同じチームのあの人が仕事できない、舐めたマインドがむかつく、とかとか。ぼくだって思うことはある。実際問題児はいるのだ。ぼくだって思うさ、おむつ交換もなぜろくにできないんだとかおっとこれ以上は愚痴になっちゃう

で、そういうむかつきとかがある時に、でもルールをとか言うのはドライに聞こえると思う。実際それは(少なくとも短期ベースで)他人が変わることを信じていないみたいなもんだから。正直ぼくもわずかながらしっている政治学者たちに対して、こいつらなんてドライで人間味のないことを言うんだと思ったことが多い(全員じゃないですよ!)。だからあるいはぼくの言うこともドライで、時として現実味のないことのように思われることも多いのかもしれない。

でもそんなこと言ったってしょうがないじゃないかと、ぼくの心の中のえなりくんが言っているのだ。そんなこと言ったってしょうがないじゃないか。もうその誰々の〇〇はその人の個性なわけだし、そりゃ指摘してけばちょっとは変わるかもしれないけれど、でもよく見たら指摘してる側のお前も割と大概なとこあるよ? 

と、いうわけで、結局みんなと生きるというのは、どうにかこうにかうまくやりくりすることなんじゃないかと思う。同じ目標を向いた人同士(とりま生きる、でも)で、とりあえず場当たり的でも関係を続けながら、でも持続的であるように人間関係のシステムを構築していって、それを後世に繋げていって、またダメなとこがあるなら直してもらうこと。だからこの発想は常に自分たちにも間違いが認められるという余地を残す。

めんどくさいなって思います。でもまあ、めんどくさいもんは仕方ないじゃないですかと、これまたぼくの中のえなりくんが叫ぶのです。