Good afternoon

基本的に乃木坂について書いていくつもりです。自分の言葉に責任を持つ気が毛頭ない人たちが中の人をしており、それが複数名います。ご容赦ください。

身体拘束について思うこと

「身体拘束「なぜ心が痛むの?」「地域で見守る?あんた、できんの?」精神科病院協会・山崎学会長に直撃したら… 」東京新聞2023年7月7日 16時00分

https://www.tokyo-np.co.jp/article/261541

この記事について思うところがあったので書いてみようと思う

 

まず前提として身体拘束は良くない。この記事の、山崎氏はこの点をそもそも問題視しているような発言をしているようなので、そこに関しては問題だろうと思う。その上で。

実はこれは双方理がある面があるように思えた。少なくとも、現場にいる身としてはむしろ氏に共感するところさえある。というのも、身体拘束は職員を守るためのものでもあるからだ。どうしてパンチを避ける才能を開花させなければいけないんだ? 人によっては損害賠償案件だって生じるし、もちろん拘束をされないことにより、記事にもあるようにより危険な行動をとってくる可能性さえ考えられる。身体拘束それ自体の問題はあるとしても、しかし身体拘束にも理由はあるのだ。

身体拘束はよくない、OK、しかし現実に身体拘束はあるし必要な場合さえある。身体拘束の議論は規範をめぐる原則論に加え、というよりそれを前提とした上で、しかしそれでもなお必要な時があるよねというプラグマティックな現場論がある。この記事を読む限り、東京新聞が前者に、山崎氏が後者に立っているような印象を受ける。もちろん山崎氏の言い方は問題だらけではあるけれど、他方で拘束の数だけで問題を語るのでなく疾患も含めて議論しろというのは「そりゃそうだ」という話ではある。もちろん、医療から語るのなら「ならその拘束がどの程度治癒に寄与できたんですか」という問いもあって然るべきだとは思うけれど。

個人的にこの東京新聞の記事がアンフェアでないと感じたのは、そのあとで「私は拘束してほしくなかった」みたいな声(だけ)を紹介していたことだ。結局原則論の土俵に持っていってしまうやり方は、身体拘束はしたくないけれど、でも、という現場の葛藤を見逃す可能性が高い。原則の前に実践のなかの葛藤は無力だからだ。

また、何が当人にとってハッピーであるかを決めるのは誰かという問題も残っている。それはもちろん当事者であろうけれど、しかし拘束を受けざるを得ない状況の当人がどれだけ自らのハッピー可能性を自己決定できるかという問題にはシビアに向き合っていく必要はある(それでもなお当事者主権をという立場には与したいけれど)。これは医療のみならずケアにも含まれるパターナリズムの問題でもある。あなたの幸せは何ですか?→わからない、なら誰がその軸を定めて実践していくのか。あるいは過去に拘束を受けていたことは実は後々当人にとって良かったのかもしれない。でもそれは誰が決めるのだろう?

原則を遵守し理想を擁護することはこの上なく大事だ。しかし世界は無菌室ではない。どこかにゆらぎのようなスペースがある。身体拘束は往々にしてこういうスペースで行われるものだし(だって(基本的に)誰も身体拘束なんてしたくない)、何ならケアだってそういう面がある。ケアは往々にして強くて余裕のある方が、弱くて余裕のない方に与えるもので、それでもケアなんて面倒なことを担う人は少なくて、だからこそ資源の少ないなかで取捨選択を迫られている。それはケアテイカーによる取捨選択だから、さっき言ったようなパターナリズムを必然的に含んでいる。そしてケアの側に葛藤がないわけがない。

東京新聞の言いたいこともわかるし、このおじいさんにムカつく気持ちもわかる。でも現場にいる身としては、どうにもこの東京新聞の構成がアンフェアだなという印象が拭えなかった。こっちは境目でやってんだよ。