Good afternoon

基本的に乃木坂について書いていくつもりです。自分の言葉に責任を持つ気が毛頭ない人たちが中の人をしており、それが複数名います。ご容赦ください。

「予防」と「共生」のジレンマ?——介護保険の新しい展開と展望

 2019年5月中旬、政府が今夏に策定する認知症の新大綱について、認知症の人の人数を削減する初の数値目標を定める方針を定めました。2025年までに70代人口に占める認知症の人の割合を6%減らす案で調整を進めているようで、報道各社が論じているように、背景には「予防」の推進による社会保障支出の抑制が目論まれています。もっとも、当の認知症予防策については手法がいまだ確立されていないのが現状であり、加えて認知症は進行を遅らせることはできるものの投薬による治療が不可能のままで、そもそも投薬による副作用の深刻さや効果の薄さ等の理由もあって、認知症対策とされている薬品が保険適用外となっている先進国も多々あります。こうした背景があるにもかかわらず、今回政府がこのような方針を打ち出したのは、いささか不思議でもあります。

 この政府決定は、そのような「効果の薄さ」のみで判断されるべきではないとうのが、本稿の立場です。今回の大綱案では、「予防」に加え「共生」が打ち出されています。そして強調したいのは、財政逼迫言説のなかでの「予防」の強調が、二本柱の一方である「共生」を損ねかねないものであるということです。

 

 あえて大別すれば、医療技術には「治療」と「予防」の2つに大別されます。「治療」は言わずもがな、すでに発病した人が医療にかかり、「患者」として認定されることによって、投薬をはじめとした医療的ケアを受けることを指します。ここで重要なことは、「治療」は「治る」こと、すなわち「患者」から「健常者」への回復、いわば「世界への再生」が予定されているということです。

 これに対し「予防」は、あらかじめ「健常者」である人が「健常者」のままでいることを求める医療技術です。「世界への常駐の意思」とでも言うことができるかもしれません。そして、それゆえに「予防」は、「健常者」の方が望ましいというスティグマに似た価値観を、拭い難く内包するのです。なにせ「予防」は、「患者」となることを避けるための医療技術なのですから。

 問題は、これが国家財政の理論と連携することです。というのも、日常における「予防」を奨励するということは、「治療」にかかること、すなわち「患者」となることそれ自体が、すでに国家財政にとってコストであること、そしてそれはコストであるがゆえに避けるべきであると見なされることを意味しているためです。敷衍するならば、もはや「社会保障費の抑制や削減というコンテクストにおいては、病という状態に陥り、治療を求めることはもはや贅沢となりつつあ」り、「とすれば、人間は病に陥る前に、日常から予防しなければならない」のです(渋谷望『魂の労働——ネオリベラリズムの権力論』2003年、青土社、p.172)。

 なるほど、確かに福祉国家は「健常者」の労働能力を活力に経済発展をしつつ、そこから外れた諸個人にパッケージ化された「治療」を行うことによって、労働界への再生を企て、またそれが叶わない者に対しては一定の保障を行ってきました。しかし「予防」が「治療」と対置されつつ強調されるとき、もはやこのような福祉国家の論理さえもありません。すなわちここにあるのは、諸個人の健康それ自体の自己責任化なのです。

 

 もし本気で「共生」を謳うならば、何よりもまず、「認知症になったとしても、全く問題なく、共に生きることのできる社会」を望むはずです。しかし現実を見れば、認知症の人の置かれた環境は決して好ましいものではありません。スティグマを散々貼られ、「言葉の通じない人」として扱われ、「こうなったら終わり」と蔑まれ、挙げ句の果てに国家レベルで社会保障費の抑制対象とされるほどです。しかし、こうした視点は果たして、誰しもが望むものなのでしょうか? あなたも、あなたの両親も、知り合いも友達も、そして私自身もまた、認知症になりうる存在なのです。もしあなたが認知症になった時、世間からそのような眼差しを受けることを、本気で臨みますか? 少なくとも、私は嫌です。しかし現実には、「予防」が前面に出る限り認知症の人へのスティグマは消えず、またそれが社会保障費の抑制と結びつけば国家にとっての「お荷物」とされています。

 まず「共生」が先に来なければならないのは間違いありません。しかし大綱案においては「予防」と「共生」は二本柱として対等に扱われつつ、かつ「予防」の数値目標(それも、効果さえ曖昧な!)のみがクローズ・アップされているのです。「予防」と「共生」はジレンマに立たされつつ、しかし国家財政なるものの都合によって前者が事実上後者に対し優位に立ち、かつ後者が毀損されているのです。

 

 ここで私たちが振り返るべきは、介護保険の独自性です。実は介護保険は、保険でありながらもその財源の半分を税収によってまかなっているのです。多方でそもそも保険とは、「共通のリスクに備える」という相互扶助的な側面があります。かつ保険料の支払いは医療保険と統合されつつも40歳からの加入を強いられていますが、末期ガンをはじめとした病状にかからなければ保険適用内とはされず、かつ65歳を超えても介護認定を受けていない人が多いことからも明らかなように、個々人の状況に応じつつもその適用範囲が実は狭いものです。このように考えると、介護保険という仕組みは、かなりのほど「赤の他人」によって担われている面が大きいことが分かります。加えて、介護保険は「措置から契約へ」という言葉にもあるように、もともと行政によるある種恩情的なサーヴィスから個人間の「契約」へとシフトしていった面があり、しかしもともとが専業主婦によって担われてきた=専業主婦が担わされてきたケア労働をめぐる制度という面があります。

 その結果介護保険は、その必要性が周知されつつも、しかし独自性の低いスキルとして介護労働の低賃金化が改善されないまま、支出-受給感覚も曖昧なままとなっています。そして認知症の人をどう扱っていいのかわからないまま、少なくとも「認知症にはならない方がいいだろう」という建前で、社会保障費の抑制を目的としながら「予防」が打ち出されているのが現状なのです。

 そのため、「共通のリスクに備える」という保険原理に込められた「共通」性は損なわれ、あくまで「共通」に行っているはずの自己責任的な健康管理に失敗した者が、恩情的に給付されるものとして介護保険が機能するのです。他方で、介護保険はそれぞれのサーヴィスを「時間」で測ったうえで提供するサーヴィスを規定しています。その限りにおいて、介護保険は目の前の他者をひとくくりにした上で一律的なサーヴィス提供を強いるものとして、介護提供者を支配します。

 

 今回の大綱案の問題は、認知症の人へのスティグマを所与とした上で財政逼迫言説を用いたことにあります。その結果もたされるのが、認知症の人へのさらなる偏見であることは、これまでに示唆した通りです。世界における自らの位置の保障としての〈人権〉が、他ならぬ主権国家によって担われてきたこと、それゆえに主権国家から「さえ」排除された「個人」が、本来ならばもっとも人権の保障をされるべきであるにもかかわらずその保障から排除されているというジレンマは、すでにハンナ・アレントジョルジョ・アガンベンが指摘してきたことです。そして「予防」イデオロギーは、これまでの記述を踏襲すれば、「世界」へと留めおくための言説であり、しかし認知症というある種不可逆的かつ(少なくとも現代医療技術にとって)回復不能とされる病状の進行それ自体を必然的に忘却しつつその状況に陥った人を「余計者」として周辺化しうるものです。他方で「治療」イデオロギーは言わずもがな、その「病理」に追いやられた人を周縁化しつつ既存世界への「回復」を強いるものとなりうるのもまた自明の事実と言えましょう。ならば、これに対抗するために必要なのは、「認知症の人が、認知症であったとしても問題なく共生できる社会」の構想しかないのは、自明のことと言えるでしょう。それは主権的な発想とも、いわゆる「病院」的な発想とも異なる、かといって既存の介護思想とも異なる地平を築くはずです。それは「ただ共にいる/あること」を肯定するものです。故に「時間」をはじめとした合理的なrational発想を基盤とする介護保険とはどこか折り合いがつかないのも納得がいきます。

 仮にケアの労働化が正当であるとすれば、それは十全な所得保障が条件であり、それを基盤とした〈その先〉への可能性ゆえでしょう。無論、確固たる所得保障なくば、ケア労働は「ためにする」労働を超えることができず、結果として周縁化された労働としてのスティグマをケア労働者に押し付け、結果として自らの職責に応じた「ためにするケア」を是認することになるでしょう。何せ、ケア労働がかろうじて生き抜くための「誰にでもできる」手法と「成り下がる」のですから。そうではなく、ケア労働者当人が余裕をもつことができる条件を探すことこそが求められます。常に〈その先〉を展望することのできる、そのための「余裕」、これは所得面においても、また精神的環境としてもそうです。誰だって不用意なスティグマを貼られたくはない。ならばこそ、そのための条件を探ることは重要であるし、少なくともそれは、「予防」的見地に毒された「世界」の固定化ではないはずです。異物としての他者と触れ合うこと、それは世界そのものを変革させてしまう、文字通りの意味においての〈革命〉なのですから。そして介護保険下で「働く」ケア提供者たちが、常にその限界を内破しているのは周知の事実です。

 

 

*もともとは別の掲載媒体を予定して書いた文章ですが、あまりかたちになっていなかったため、テキトーに加工したうえで本ブログに載せました。