Good afternoon

基本的に乃木坂について書いていくつもりです。自分の言葉に責任を持つ気が毛頭ない人たちが中の人をしており、それが複数名います。ご容赦ください。

ハロウェイ

その日はたまたま土曜日で、勤務地も六本木だった。室内にいた関係からまるで実感はなかったのだけど、外に出たら、そこには全く異なる光景があった。

そう、ハロウィンだ。となれば取るべき行動はただ一つ。アルバイトを終えた僕は、たまたま居合わせた同年代の3人とともに、パリピの街、渋谷に向かった。

 

ハロウィンはトリック・オア・トリート。お菓子をあげなければ、子どもはイタズラをする。トラックを横転させたのを筆頭にその「素行の悪さ」が嘆かれているも、なるほどイマドキの若いもんは、経済成長の恩恵をそんなに受けているわけではない。気づけばバブルは崩壊していて、生活保障システムの機能不全が明らかになるなかで、政治も「ぶっ壊す」だけぶっ壊してその先の展望がいまいち見えない。少子高齢化、雇用の不安定化、国際関係はニュースで日々緊張が煽られて、その割に「ゆとり」だ何だと文句を言われる。

こういう風に言うと、我々は「お菓子」をまるでもらっていないように思える。ただ、それでもって必ず終電を過ぎたパリピ・パラダイス・デイで素行の悪さを見せつけねばならないというわけでは、当然無い。社会運動論で言うところの集合行動論よろしく、不安をぶつけて集まるみたいな議論ではおさまりはつかない(もちろん集合行動論はこんなに雑な話ではない、念のため)。

では資源動員論的な発想ならどうだろう。社会運動論のなかで資源動員論は、集合行動論へのアンチテーゼとして生まれた。運動の参加者は単に社会不満を拗らせて後先無視して集ってるのではなく、実は合理的・戦略的なんだよというのがその基本的なメッセージだと言って、そんなに間違いはないだろう。この場合、適切に「資源」を「動員」する戦略こそが問われることになるのだけど、ウェイなハロウィン、通称ハロウェイにおいては、僕の知る限り、そういう戦略を展開する参加者は誰もいない。なにせみんな好き勝手に集っているだけだからだ。

 

こうなってしまうと、ああした集い方についての説明は、やや工夫が必要になってくる。管見の限り、主流な捉え方は「民度」によるものだ。かねてからハロウェイにおいては翌朝のポイ捨ての多さに代表されるマナーの悪さに注目が集まっていたが、それはどのような心理でなされるのかということだ。これは更に2つの流れに分けられる。一つは「最近の若者はやばい」という世代で区切ったもの、もう一つは「そもそも日本人なんてこんなもの」というものだ。一つ目はよく言われる議論だが、あのパリピたちのなかに、実は「若い」かどうか微妙な人もいることを説明しきれない。また、SNS等の情報にかんする環境変容は確かにあるわけで、本質的にそんな世代間の違いはないんじゃないのという批判もありうる。後者は、「日本人はそもそも空気を読むだけで」といったかたちの議論だが、大多数の「日本人」はこういうことをしない。そもそも渋谷型ハロウェイそのものが非常に都会的なイベントでもある。

これに対し、環境に注目した議論も、少数ながらある。「然るべき環境が揃っていないのだから、当然こうなる」といったものだ。具体的には、ゴミ箱の不足がある。渋谷駅周辺でいえば、交番前あたり(以前、喫煙所があったらへん)に特設のゴミ箱はあったけれど、それ以外には目新しいものは見当たらなかった。しかしパリピ達は酒を飲むし、何ならそれゆえのハロウェイだ。そしてコスプレをすればカバンは邪魔になる(ゴミ袋を持ち歩くミイラがどこにいる?)。このような、環境整備の不十分が、ああした結果を生んだというのが、この議論である。この場合は、行政の対応が問題となる。

 

さて、どれが正しいのか正しくないのかは、ぶっちゃけ分からない。ただし「民度」アプローチについて言えば、その「民度」とやらには、いかに訴えかければいいのかという問題が残る。なにせハロウェイに目に見える主催者ないない。言ってしまえば、このアプローチは、参加者一人ひとりの倫理観みたいなところに頼るしかないが、それゆえに、あまりにも心許ないのだ。人は時によっちゃフリーライダーになるというのが経済学のメッセージだということを忘れてはならない。

そもそも、「民度」とやらに訴えかけるアプローチは、政治的バイアスが関わってくるので扱いづらいし、場合によっては解決を遅らせる。例えば「日本人は本来は静かな民族でマナーを守り」的なことを言えば左派は対抗するだろうし、実際に「日本人」なるものの本質を定めて規制を行うのは規範的にも肯定されにくいだろう。世代間対立を過度に煽るのもいただけない。何より、若者にも踊る権利くらいはある。さらに議論が規範をめぐり紛糾すれば合意は遅れ、それは対応の遅れへと繋がる恐れもある。

 

というわけで、有効な手立ては行政の側にのみあるというのが僕の見立てだ。これには非常にざっくり分けて、「規制」と「支援」の2つの方向がある(なおこれは武川正吾さんを参照しつつ、しかしかなり違う用法で使っている)。

順に説明する。「規制」は簡単で、「ハロウェイはやばい。やばいからやめさせる。パリピむり」というものだ。具体例なのかは分からないけれど、大方、その日暴れた奴を一斉検挙していく感じだろう。ここまで大仰でなくとも、行動の幅を狭めるやり方はいくらでもある。

もう一つは「支援」で、これは「ハロウィンはもう文化。文化だけど、さすがにこれは危ない。というわけで、安全に終わるように環境を整えよう」というものだ。たとえばゴミ箱の大量設置は、各企業にとってそこまで魅力的な策ではない。ゴミの処理を受け入れるコストがかかるし、何より「隣の店がそれをやってくれたら自分の店の前に捨てられうるゴミはそっちに集中する」という計算のもと、合理的に自分はゴミ箱を置かないという発想に至るかもしれない。そこで行政がイニシアチブを取り、ゴミ箱を多く設置したり、また商店街(といった分かりやすいくくりなのか、それとも各店に対してなのかは置くとして)に対してゴミ箱設置命令を出したりとかすることが考えられる。

規制と支援の違いは、「暴徒」とみなすか「お祭り」とみなすかに対応すると思う。前者であれば規制する必要がある。何せ暴徒だし、何ならトラックを転倒させている。後者ならば、むしろ円滑に回すべき対象とみなされ、サポート策が取られる。この場合は行政の対応力不足が問題となる。何せこいつらはトラックをひっくり返している。ただし祭りの主催者はいないので、環境整備を全力でやる必要が出てくる。

この対応の違いは、現場の積み重ねで生まれる。たとえば、ロフト手前エリアの道は一通なのだけど、24時になる前くらいには、そこでサウンド・システムを大量に取り付けた車が停車し、爆音でレペゼン地球を流していた。爆音があれば踊るのがパリピである。そして一通はさらに塞がれ、クラクションが鳴る。こんなのは警察が秒で十数人単位で駆けつけて今すぐにでも爆音やめさせてパリピを歩道に戻し車を前進させなければならない。しかし管見のの限りでは、警察はあくまでスピーカーを用いた「警告」をしただけだった。僕がそこから離れた後に警察が駆けつけていたのかもしれないが、それにしても遅すぎる(なお僕はそのパリピ輪の中には一切混じっていない、念のため)。しかしこのような規制の機能不全は、結果としてハロウェイの暴徒化を許容し、事後的に「規制」言説を強めた。「あいつらはやばい」という言説だ。これは現場での規制の弱さと戦略ミスゆえだが、それ故にハロウェイは、「もっと適切な支援のあり方があるよね」といった支援的な対象でない、「暴徒」を押さえつける規制の対象とされる。

加えて、そもそも行政の側にハロウェイを支援するメリットもそんなにはない。何せゴミは捨てるわ痴漢も発生するわトラックを横転させるわと、普通に考えてロクでもないことが起こっている。わざわざ「支援」してやる義理はないと考えるのが普通だろう。よほどのことがない限り、政治は危ない橋を渡らない。

 

まとめる気はない。ここまで書いたのは、基本的には「なんかこんなことふんわりおもいました」くらいのことに過ぎないからだ。僕自身は、ああいうおちゃらけた空間は好きだけれど、痴漢も発生し、トラック横転、一通は塞がれてゴミは大量に捨てられるなど、全肯定する気になど、とてもなれない。一方で、あえて嫌な言い方をすれば、行政の側がうまいことハロウェイを「体制内化」できるんじゃないのかねとか思っているのも事実だ。

ただここまで書いてきたように、僕はこの問題について、あえて言えば「集合行動論」的なアプローチは取っていない。どちらかというと環境整備にコミットする行政、とりわけ、どのような言説がどのような過程を経て主流になり現実の規制ないし支援に繋がっていくのかに注目している。なので、サッカー日本代表のアレコレも含めたこの手の話について、「ネタ」が揃うのもしばらく先ではないかと考えている。ここで言いたいのは、面白い文化批評みたいなものは今後いくつも出てくるだろうけれど、それがどの程度きちんとした実証モノなのかといえば、それはまた違うのだろうということだ(その上で、文化批評的なものにはそれ特有の重要な意義があることも強調しておきたい)。

思い出すのは、学部4年の終わりの「卒論お疲れ様飲み会」だ。あの場に集まった奴らは、実はほとんど全てが、卒論を真面目にやっていなかった。なら何でそんな飲み会をしたかといえば、ただ単に、飲み会をする口実が欲しかったからに過ぎない。でも、ハロウェイもW杯も、基本は似たところなのだと、勝手に思っているし、それはそんなに問題ではないとも思っている。

ストレスが溜まったわけでもない。飲みたいだけなのだ。騒ぎたいだけなのだ。ただ、それには一定のモラルが求められる。僕はどうしても良心に訴えかける発想がストンとこないので、環境を整える方向や、その内部でどんな対立軸があるのかとか、そういうことばかりを考えてしまう。

 

(追記)

今回は議論の単純化のために「支援」と「規制」を対立的に使ったけれど、もちろんそんなことはないということは強調しておきたい。例えばここでいう「支援」に取り組む場合、トラックを転倒させたり多発する痴漢行為に対して十分な規制を行う必要が生じる。逆に、こうした規制を怠ったまま支援するとなれば、それは大問題だ。行政がこのような(集団的な)暴力行為を是認しているに等しいからだ。このように、支援と規制は別ベクトルの議論であって、それらをいかに組み合わせるかが問われるべき事柄となる。