Good afternoon

基本的に乃木坂について書いていくつもりです。自分の言葉に責任を持つ気が毛頭ない人たちが中の人をしており、それが複数名います。ご容赦ください。

バルミューダフォンと政治

皆さんは、バルミューダフォンをご存知だろうか? 先日発売された、その性能の低さと釣り合わない価格設定で悪い意味での反響を呼んだ、あのバルミューダフォンである。

 

一応解説しておくと、会社としてのバルミューダの特徴は、独自のストーリーを製品と共に売ることによって生活スタイルそのものを提案することにあると、僕は思っている。バルミューダは自社の製品のストーリーをポエム的にウェブサイトで綴っている。文体はアップルのそれととてもよく似ているし、販売戦略もアップルと同じと言ってもいいかもしれない。バルミューダフォンのデザインはiPhone 3Gとよく似ていると指摘されている。しかしアップルのコピーではなかった。バルミューダはもともと高い家電屋として名が知れており、打ち出された10万円という価格自体はその点で見れば違和感のあるものではなかったけれど、スマートフォンである以上性能が露見しやすいという面があったのだろう。株価も暴落するなど、バルミューダは結果として自社のブランドを傷つける結果となった。今回のバルミューダフォンの失敗は、バルミューダという「高品質」な生活スタイルそれ自体への疑念を生んでしまった面がある。


僕がこの騒動で思うことは、ポエムで隠し切れる内実には限界があるということだ。たとえば扇風機なら、デザインや部屋のなかでの位置づけなどで、多少高くとも「高品質感」を覚えることができるかもしれない。実際に高品質かどうかがここでは問題であるわけではない。そのような「感」をもてることが大事なわけで、その点、それまでのバルミューダのポエム戦略は成功していたと思う。他方で、バルミューダフォンはソフト・ガジェットである以上、メモリ容量をはじめ、内容は数値として評価される。ポエムによって内実を超える高品質感を感じとることには限界があるのだ。

ポエムが良くも悪くも重要になるのが政治の世界だ。どのような世界観を提案していくかは、有権者がその政党なり候補者なりに投票するか否かの一つの指標となる。よく知られた例でいえば、「自民党をぶっ壊す」というメッセージは、それが事実であったか否かをおくとしても、「これまでとは違う自民党=政治になるのだ」という期待を抱かせることに成功した。そして強い支持は政党・候補者のパワーに直結するため、翻ってポエム自体が政治を形成する面が生じる。ガジェットと異なり政治は「中身」の性質が固定されていない。蓋を開けてみたら商品自体が変わっていることはザラにある。

立憲民主党の経緯は実は、ある程度こうした観点から捉えることができるというのが、僕の持論だ。立憲民主党はもともと希望の党との合流騒ぎのなかで生じた枝野一人のムーブメントだった(と、されている。この背景には路上の運動があったりするわけだけど、まぁ一般有権者にとってはそんなことはどうでもいい)。この時は希望の党の騒ぎが結局いつものグダグダした民主党じゃないかという感じもあってか、また枝野の熱量や「これまでとは違う」感やベースが一発屋とは異なるきちんとした政治家であったこともあってか、立憲民主党は大きく躍進した。この時立憲民主党(枝野)が提示した「右でも左でもなく、下から前へ」といったメッセージや、福山が合流するなどといった可視化されるストーリーなど惹きつけられる要素があったことは言うまでもない。ここまでは典型的なポピュリズム政治、あえていえばポエムの政治だった。

その後野党第一党となった立憲民主党は急速に「民主党」としての顔を見せ始める。単純に、自力でのパワーがない(多くの人材がのちの国民民主党にもってかれていた)ことが大きかったし、規模を拡大していく過程で既存のネットワークに依存せざるを得なかった。顔はポエマーでも身体はいつもの民主党なのだから、ポエムが続かなければ身体の方が前にくる。

 

ここで重要なことはポエムを支える支持構造であることが見えてくる。立憲民主党の立ち上げ期はこれまで路上で動いていた無名の市民たちが支えてきた面があった。しかしそれは労働組合や経済団体や宗教団体のような組織化された集団ではないから、支持動向も不明瞭だし、継続的な支援の見込みも持ち得ない。すなわちかれらを動員し続けるには「立憲」の顔を出し続ける必要があった。しかし急速な拡大に伴い「民主党」としての振る舞いがどうしても必要になった時に、かれらは離れてしまう。この背反を立憲民主党は、立ち上げ直後の大勝から強いられてきたわけだ。

今回の衆議院選挙では立憲民主党は微妙な結果を出した。数字の話はもうすでに多くの人がしているからここでは言わないけれど、問題は、立憲民主党が実に「民主党」的な振る舞いをしたことにある。つまり、野党共闘、というより共産党との共闘にケチをつけ始めたということだ。野党共闘は失敗だったかといえば、そんなわけがないことは誰にでもわかる。小選挙区制で野党が割れていたら票が分散する以上、やらないよりやった方が結果として得することは当然の理屈だ。

問題は、この野党共闘立憲民主党が消極的な視点を隠していないことにある。野党共闘に懐疑的な目を向ける真っ当な声としては、「政権を取った際のビジョンが見えない」というものがある。これは共産党との関係をいかに立憲民主党がコントロールしていくのか/いけるのかという信頼の問題にかかわる。しかし立憲民主党野党共闘それ自体、共産党との共闘それ自体に疑念をもち、また対外的にそれをアピールしてしまえば、目立つのはむしろ立憲民主党の「弱腰」な面だけだろう。次の参院選まで時間がないことを踏まえれば、立憲民主党がとるべき態度はむしろ、これまでの動きを継続させながら、個々の政策(特に経済政策)を練りそれらすべてをメッセージ化していくことだろう。ようするに、まともなブレインと威風堂々さが足りていない。そしてこれは政権を担うに値する政党が持たなければならないものでもある。

 

バルミューダフォンがそうであったように、ポエムで隠し切れる内実には限界がある。しかし政治は外枠が内実をつくっていく面が、良くも悪くもある。枝野は辞任し、新たに代表となった泉健太立憲民主党のなかでは「保守寄り」と目される政治家で既存の支持層の失望を多少なりとも買った。その一方で党役員の男女比を半々にするなど一見して「リベラル」な改革にも着手している。だが政権構想にも直結する野党共闘のビジョンは特に打ち出されてもいない。その限りで立憲民主党の選挙戦略は「小手先」にとどまっている。

コロナ禍で行きつけの店が潰れ、ビルの看板が次々と消え、エッセンシャルワーカーと呼ばれ始めた人々の疲弊の声は相次ぎ、支援も雀の涙という現状のなか、リアルな成長戦略が求められている。安保法制の時などは成長への疑念が全国的にあったのは事実で、成長より生活保障を強調することに間違いはなかったと思う。しかし今はフェーズが違うし、それゆえに「悪夢の民主党政権期」のようなふざけたデマがダイレクトに刺さる。「批判型でなく提案型」のようなことを言っている限りは野党であることが前提だから話にはならないのは当然のことで、自分たちが政権を取り何をするかというレベルで説得力をもたせなければならない。そしてそのための内実を整えていかなければならない。今の立憲民主党にはポエムも内実も追いついていない。路上の運動もない。特にコロナ禍で街中にも出れやしない。 

まるで八方塞がりのように見える。しかし状況自体はあの時から何一つ変わっていない。いまはコロナ禍で外に出にくいけれど、結局のところ立憲民主党が潰えて困るのは僕たち自身だし、かといって支えてやらないとあの政党はすぐに民主党仕草を出してくるとうのが経験的に明らかなわけだから、どうしたってこちらでテコ入れしてあげなくちゃいけない。とても面倒くさいと思う。でも僕たちはもう二十歳を超えた大人で、やるべき時はやらなくちゃいけないのだ。バルミューダフォンなら批判レビューをYouTubeにあげてやればいい。でも僕たちが生きているのはiPhoneの存在しない、バルミューダフォンのような質の低いくせにわけのわからないポエムで高い値段をふっかけてくるような、にもかかわらずそれしか選択肢が事実上ないような世界なのだ。ならこいつらを舌打ちしながら育ててやるしかない。

舌打ちしながら育てる、というのは動機付けとしても最悪だし、普遍的な解ではないだろう。しかし丸山眞男も言うように本来的に政治は「悪さ加減の選択」でしかない。僕たちの悩みは戦後から実は大して変わってはいない。