Good afternoon

基本的に乃木坂について書いていくつもりです。自分の言葉に責任を持つ気が毛頭ない人たちが中の人をしており、それが複数名います。ご容赦ください。

通信制とリモート授業

僕はかつて、通信制の大学に籍を置いていたことがある。通学制の大学を出た後に教員免許を取ろうと思ったからだ。ちなみに教員免許は結局取っていない。

通信制をよく知らない人も多いと思う。まず通信制は大学には基本的には通わない。テキストの山がどさっと送られてきて、「さあ、この中から好きなものを読んでね」というわけだ。通学制だとまずお試し授業みたいなのを受けて、シラバスを読み、時間割を決めて、授業が本格的にスタート、という順番だ。対して通信制は、とりあえず授業(テキスト)の山がまず目の前にあり、レポートを書いてから実質履修登録みたいなかたちになる。

つまり先生の負担が少ないのだ。後で知ったことだけど、レポートの採点は大学院生がやっているらしい。一度レポートを出したら難癖みたいなコメントがつけられてムッとしたことがある。でもまあ大学院生にとっては良いトレーニング(と、お金稼ぎ)にはなるのだと思う。あの時ムッとしちゃってごめんなさいね。

さて、現在リモート授業が盛んだったり盛んじゃなかったりするわけだけど、リモート授業だと明らかに先生の負担が大きい。それまでは大学で喋ってれば良かったのが(言い方が良くない)、リモートという新しい形態に慣れなければいけなくなった。一回一回撮らなくちゃいけない。ミステイクだってあるだろう。実況するスタイルもあるのかもしれないけれど、通信トラブルがあったら最悪だろうなと思う。

このところリモート映像を公開する先生がいたりして(主にツイッターに)、僕もそれを観てみたけど、率直な感想は「これは楽しそうだな」だった。仕事の休みの日とかに、こういう映像を見たりして知見を深めたりする。僕は仕事をしているので生活のメインはそちらにある。「つまみ」くらいでやる分にはとても良いなと感じたのだ。大学生当人たちがどう感じているかは分からないけれど。

通信制の時はどうだったかというと、率直に言ってテキストが面白くなかった。本当に面白くなかったのだ。国語学のテキストなんてもう何十年も改定していなかった。もちろん面白いのもあったけど、先生に色々尋ねたい気持ちの方が大きかったし、何より「これは市販のテキストじゃだめなのかな」と思うことが多かった。そうそう先生への質問も、なんかよくわからない形式のコメントペーパーみたいなのを送らなくちゃいけなくて返信ももちろん書面というめんどくさい仕組みだった。それとついでに、僕が籍を置いていた大学では、通信制の人はスクーリングの期間を除いて図書館の本を借りれなかった(入れはする)。これはちょっとどうなのだろうと思った。スクーリングは面白かったけど、まあこれは通学制の人がいつもやっていることではある。

総じて言うと、通信制と今どきのリモート授業というのは根本的に質が異なる。リモート授業もやっぱりベースは通学制なのだ。そして先生の負担も、もちろん事務の皆さんの負担だって大きい。そういうわけでリモート授業の授業料減免みたいな話に僕は与しない。まあ大学生当人たちは思うところがいっぱいあると思うのだけど、やっぱりリモート授業だって立派な通学制のシステムなのだ。

ところでここまで書くと僕が通信制の悪口ばっかり言っているような感じになってしまうのでフォローしておきたいのだけど、通信制は結構良い仕組みだと思っている。何より授業料が安い。たしか1年で30万くらいだ。とても安い(もっと安かった気もする、なにせ昔のことなので、、)。それと僕は参加していなかったけど通信制の学生間交流もあり、通信制というのは結局本人にやる気がなければ続けられないので、学生のレベルが結構高い(その分癖の強い人が多そうだけど)。レポートのフィードバックが返ってくるというのも、実は通信制独自のものでもあると思う。通学制だと提出して終わりだし。まあ僕はムッとしちゃったんですけど。

総じて言うと、それぞれに良い面があるというわけだ。そして通信制の仕組みはもっと普及して良いと思っている。通学制だと厳しい人だっているだろう。だから今リモート授業が当たり前になっているけれど、それが通信制の授業とかに還元されていけばいいなと思う。学生へのサポートとかで、どうしたって通信制と通学制とでは差が出る(良くも悪くも通信制は「お前が一人で頑張れ」システムだ)。だから別に授業料に差はあれど、通学制の学生さんたちが現状得ているリモートシステムを通信制が貰っても文句はあるまい。それぞれの仕組みが分裂せずに相互に噛み合っていけばいいんじゃないでしょうか。

この歳になると改めて学びたいことが増えてくる。若い頃に気づかなかった視点だって出てくる。いや今でも若いつもりですけど???? まあそれはともかく、そういう時に通信制は「痒いところに手が届く」面はあるんじゃないかしら。まあもうちょっと学生サポートの仕組みが整ってくれればと思うけれど。あと本は貸してください。

おじさん

今年で32歳になる。

30になった時、まだ自分はおじさんではないと思っていた。31になった時、厚労省あたりの定義では35までは若者だから自分はまだ違うと思った。

この前20代の人と話した時、ふと「LINEするの?」ではなく「メールするの?」と聞いてしまった。おじさんじゃないか、と思った。というか、言った。「ごめんね、俺めっちゃおじさんみたいなこと言っちゃった」。実際は、心の中で「うわこいつめっちゃおじさんじゃん」と思われるのが嫌で、自分からフォローしたのだ。

世代の違いは言葉の違いとして現れる。メールとLINEの違いもそうだろう。今の更に若い(幼い?)世代はLINEさえ使わずInstagramのメッセージ機能でやりとりするらしい。きっとLINEという言葉さえ古い言葉となるのだろう。次は「メッセ」とかなのだろうか。それとも違う何かが出てくるのだろうか。

この文章はiPhoneで打っている。iPhoneで文字を打つのはとても苦手だ。といっても手書きも嫌いだから(なにせ字が汚い)、PCで書くのが一番良い。でも今時の大学生なんかはスマホでレポートを書くらしい。自分には無理だ。でもそれが当たり前になってくるのだろう。いずれPCを使わずiPhoneだけで書かれた論文がノーベル賞を受賞し、iPhoneだけで撮影から編集までされた映画がハリーポッターくらいのものになるのかもしれない。

おじさんになって、でもおじさんの自覚がない結果、嫌なムーブをしてしまうのが個人的には一番嫌だ(若ぶったおじさんの害悪さったらない)。だからおじさんになったらきちんとおじさんとして振る舞いたいとは思う。でも人はどこからおじさんになるのだろう? この前職場で「10代かと思った」と言われた。内心嬉しかったけど、でもそれはどうなのだろうかとも思った。然るべき年齢に見られないというのは単に自分がきちんとしていないだけではないのだろうか。もう30を超え人によってはおじさんとみなしてくる、そんな年齢であるにも関わらず。

そういえばiPhoneと書く時、まず「ケータイ」と打とうとして、いやそんな言い方はもう誰もしないよなと思い、あわてて修正した。きっともうこの時点でおじさんなのかもしれない。

ハリーポッターを最近よく観ています

タイトルの通り、ハリーポッターを最近よく観ています。映画です。

もともと年末にコロナ陽性になってしまい(幸い無症状でした)、いかんせんやることがないのでAmazon primeハリーポッターセットみたいなのを5000円で購入して見まくったわけです。

年始にはNetflixハリーポッターが解禁されていました。どういうこっちゃ。

僕はハリーポッターは昔から好きで、というよりほぼ唯一まともに読んだ本でして、子どもの頃にちゃんと読んだのはハリーポッターと少年ジャンプくらいだというくらいです。新刊が出たり映画を観る前に予習として全巻読み直したりしていたので賢者の石に至っては10回以上は読んでいました。といってもそれは随分前のことで、実はある時期からもう映画にも飽きていて、死の秘宝は映画を観ていないという、ハリーポッター愛する人間としてはあるまじき状態のまま、この歳まできてしまったわけです。

コロナの隔離期間というのはどうにもやることがない。本当にやることがない。症状があり辛いならそれはそれで大変なまま時間が過ぎるのでしょうが、症状がないならないで今度は退屈が強いられてしまう。どちらが辛いかといえばもちろん症状がある方だと思います、もちろん。しかしまあこれは良い機会だろうということで今回死の秘宝を観て、せっかくなら全部観ちゃおうという運びとなったわけです。

つまり購入順としては死の秘宝レンタル→コンプリート版購入、ということになります。コンプリート版にはもちろん死の秘宝も含まれているのでレンタル分はいわば無駄になったかたちです。

 

ハリーポッターというのは論点が多岐に渡る作品ですよね。たとえば階級と愛の関係は明らかにシリーズ全体を貫くテーマです。マグル/魔法族、貧困/裕福、この2つあたりが大きいですかね。愛と関連して家族も強調されていますね。ヴォルデモートというのは典型的な「なりたかった自分」になれていない自分を恐怖や力で周りを押さえつけ無理やり乗り越えようとするタイプの悪人で、愛という他者への依存を(ナギニを除いては)することができない。この作品のなかで死を最も恐れているのがヴォルデモート当人であることは明らかで、こうした死への恐怖は、それを乗り越えようとする「自立」心、他者への依存を忌避する、あるいは他者への恐れの強さとパラレルに存在しています。

ところでファンタスティックビーストも観たのですが(続編を心待ちにしています)、グリンデルバルトとの違いも面白いですよね。ヴォルデモートは良くも悪くも力で全部何とかしちゃおうという発想で、だから魔法省を自力で陥落して政治的に成功するのですが、対してグリンデルバルトはもうちょっと「絡め手」というか、結構政治的なやり口を見せます。麒麟を殺して操って自分にお辞儀させようとしたりとか。こうして見るとグリンデルバルトは結構小っちゃいというか姑息な感じがありますが、他方でそのやり口はむしろ「大人」っぽくもあるわけです。グリンデルバルトの目的はそもそもが政治的であって彼なりに大義を掲げている。だから周りに認めてもらえるやり方である必要がある。対してヴォルデモートはあくまで自己保身だけが結局目的なので手段を問う必要がそもそもない。悪役としてのスタンスがそもそも初めから違うわけです。だからなのか、ファンタスティックビーストはハリーポッターシリーズより「政治」が前面に出るし、だからこその世俗感というか、その矮小さみたいなのがより現れる「大人」な作品なのだと思います。子どもを視聴者として獲得するのはハリーポッターシリーズより難しいだろうし、世界観や物語の複雑さなどを観てももともとハリーポッターシリーズを愛した人が対象になり、かつハリーポッターシリーズを愛した人がファンタビ世界観を愛せるかというとそれはまた別の話にもなってくるのかなと。

イケおじジェイコブさんを観た後でロンを思い返すと爆笑しちゃいますよね。茶さじ一杯分の器があるかさえ怪しい。まあロンがコンプレックスの塊かつ俗なキャラクターだというのは最初からそうで、かつ周りにいるのがハリーやハーマイオニーみたいなのだったらそりゃ本人も思うところがあるでしょうが、しかし何やかんやありつつも結局2人と一緒に戦うという選択をするところがロンの良さなのだと思います。凡人でも選択する勇気が人を正しく導くのだ、みたいな。しかしどうしてハーマイオニーはロンを好きになってしまったのだろう、、。

いや本当にこの作品、結局ハーマイオニーにおんぶにだっこなんですよね終始。もうハーマイオニーと死の秘宝とかでもいいんじゃないのって話です。ハーマイオニーとネビルがいなかったら間違いなくヴォルデモート軍団に手も足も出てませんからね。ちなみに僕は観てないんですけど呪いの子ではネビルが殺されちゃったためナギニが死なずヴォルデモートが勝利する世界線が出てくるみたいです。この世界線で爆発系男子シェーマスフィネガンくんはどうなっているのかが気になりますね。いやあんま気になっていないんですが。

 

死の秘宝のラストバトルを最初読んだ時、実は当時の僕は結構ガッカリして、「なんだその設定バトルは」と思ったんですね。やはりジャンプ少年だったので実力で勝って欲しかったんでしょうね。でもよくよく考えてみるとハリーポッターの世界でハリーが実力で何とかしたことってまあないんですよね。賢者の石では愛の力でクィレルがやられちゃいますけど当時のハリーには基本なす術がなく、アズカバンではハーマイオニーにほとんど指揮取ってもらうかたちで、炎のゴブレットは設定バトルで不死鳥の騎士団と謎のプリンスはダンブルドアバトルと、まあそんな感じでしたし。秘密の部屋に関してはフォークスの活躍ありきですけどハリーが結局勝てましたよね。どうしてバジリスク負けちゃったのか今思うとまあ謎ですよね。ハリー12とか13ですよ?

まあそれは置いておくとして、実はハリーポッターシリーズってこうした意味で少年漫画的な発想とは全然違うんですよね。良くも悪くも環境に振り回されまくる。その象徴がスネイプだと思っています。彼、ヴォルデモートがいなかったらそこまで闇落ちしなかったんじゃないかと思うんです。ヴォルデモートの存在が闇の魔法使いの勢力を可視化させ、分断を招き、ジェームズ(そしてリリー)とスネイプは諍いのなかでそれぞれの陣営に入っていく。でもヴォルデモートがそもそもいなかったらそうした闇の軍勢みたいなのも(少なくとも作中であるほどには)いなかっただろうし、スネイプもそこに属することも、またジェームズが過度な偏見を抱くこともなかったのではないかと思ってしまうのです。もちろんスネイプがヴォルデモート側につくという選択をしたことそれ自体は非難されるべきでしょうが、他方でスリザリンの置かれた状況とかを考えてもそれはある程度「自然な」進路でもあったと思うのです。その意味でスネイプもまた運命に翻弄された一人なのかなと思うわけです。事実その後スネイプは華麗な掌返しをやってのけるわけですしね。

それと気になるのがスリザリン寮の扱いです。小説ではどうだったか忘れたのですが、映画では最終章でマグコナガル先生がフィルチさんにスリザリン寮生を追い出せみたいなことを言うんですね。まぁ状況判断としてはそうなると思うのですが、よくよく考えてみたらスリザリンの扱い方みたいなのが結局全てのトラブルの元凶なのでは?と思ってしまいます。スリザリンって悪い奴ばっかみたいな位置付けですが恐らくイギリス的価値観では狡猾さというのは是非以前に評価されるべき価値なんですよね。この辺は丸山眞男も指摘しているところで、イギリス的狡知こそが政治的な知性を磨いているみたいなことを言っているのです(たしか)。でも結局あの世界線でスリザリンって基本悪者扱いで包摂しようみたいな感じはないじゃないですか。他寮との関係も悪いですし。そこらへんは正直ホグワーツの寮統治の問題が根深いなと思ってしまいます。

あっそうそう統治問題と関連してなんですが魔法界って中世的なノリが結構多いですよね。マグル世界、というかまあ我々の世界と見比べると(悲しいかな僕は魔法を使えないので我々と表記しています、ホグワーツさん、お手紙はいつでも待っています)、結構遅れてるなと思うシステムがちらほら見え隠れします。政治体制なんかもそうですし、そもそも魔法界は、まあマグルと比べて個々間の力量の差が大きすぎるのはあるかもしれませんが、しかしそれにしてもダンブルドア一強みたいなところがあったりとかしますよね。マグルなら機械化してどんどん効率化しているところを魔法でアナログなやり方をずっとしていたりとか。魔法でなんでもできちゃう分技術進歩が遅れるみたいなところがあるのでしょうか。ロンのお父さんもマグルに比較的詳しいはずなのに改札の通り方を知らなかったりとか、魔法族がマグルの側から学ぶということがあまりにも少なすぎる印象を受けます。この点に関しては魔法族のなかに根深いマグルへの偏見が関係しているんでしょうね。なんかそういうところも魔法界のしくじりとして一貫しているのかなと邪推してしまいます。

 

まぁ論点なんていくらでも出てくるんですがいつかちゃんと絞って長い文章を書いてみたいですね。いま手元に小説がないですし他にやらなくちゃいけないことも多いのでとてもできないんですが。でもハリーポッターについてはちゃんと自分のまとまった考えみたいなのを一個確立しておきたいなという気持ちがあります。なにせジャンプと並び子どものころにちゃんと読んだ本ですからね。

ちなみに一番好きなところはクィレル先生をボロカスにした後の保健室でダンブルドアが「君たちのことは極秘になっている、つまりみんな知っているということだ」というとこです。いいですよね、あそこ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4月ですね

4月になりました。早いもので、今の仕事を始めてもう4年目になります。正直、この仕事をここまで長くするつもりはなかったので、自分でもびっくりしています。この間に得れた知見、というより感覚は大きく、不満とかも色々ありましたが、おそらく振り返ってみればかけがえのないものになるのだと思います。逆に言えば振り返って「あの経験は大事だったな」と思えるような人間になっていないといけないわけで、良くも悪くも将来へのハードルのようなものは上がりますね。

これまでの3年間で、自分のなかではかなり「キャラ変」を試みてきました。怖いイメージは良くないので(日常生活においても、仕事的にも)、明るいのんびり屋さんになろうと心がけてきました。これはそこそこ上手くいっていると思います。どうしても口の悪さとか、態度とか、発想とか、そういうところで暴力的な面が出てきてしまいがちですが(おそらくは多くの人と同じように)、ここに関してはかなり自覚的に頑張ってきたのではないかなと。これも職場の先輩を見て「自分もこうなりたいな、自分が今登るべき山はこれだな」と思えたのがきっかけです。ゆったり、のんびり、落ち着いて行動する。焦ったり走ったりしたらマインドに跳ね返って良くない感じになりますからね。柔らかい人間になりたいものです。

それから、まだ諸々書類手続きが必要なので確定はしていませんが、介護福祉士になります。政治学修士介護福祉士をどちらももっているのはかなり珍しいのではないかなと思います。個人的には、現場は好きですが、現場のために自分ができることは現場に居続けることではないと思っているので、あくまで介護福祉士という資格は単なる称号のようなものですが、しかし少なくとも自分はやってきたんだ、という証明にはなると思うので、まぁ取ってよかったかなと思います。どの口が言うかというのは割と重要ですからね。他方でお勉強のために自分の読書とかがだいぶ損なわれてしまったのは残念だなと考えています。これに関しては自分のお勉強における不器用が災いとなっており、かつそれは自分のこれまでの人生の問題でもあるので、仕方ないといえば仕方ないのですが。その一方で小説は(あくまで趣味として)読み続けており、文学経験のようなものに自分の考えが寄っている面もあります。どちらが良いかと言えば当然、これまで自分がやってきた社会科学的な知見を伸ばしていった方が生産性は高いので全体的には損失の方が大きいと思うのですが、まぁこれはこれで良い経験だったのかなと。

今後ですが、これまでの習慣をまずは取り戻したいと思っています。少なくとも月一で自分のための文章執筆をやりたいなと考えています。あくまでトレーニングですが、人に見せても恥じることのないクオリティは保っていきたいです。野心としては、研究を再開したいと思っています。なぜこれが野心かというと、自分のプライベートな環境が大きく変わりそうな感じがあり、これまで手が回るかな、という不安があるからです。まぁやれるだけやっていきましょう。仕事の面では、もうちょっと幅を広げたいですね。元々が介護を極めたい人間ではなく、むしろ現場のバックアップであったり、とにかく現場の人のために何かしたいという動機で入職しており、現場を3年経験してますますその思いが強くなっているので、そこは頑張りたいかなと思っています。というか、実は入社当時は他にもいろいろオシャレな感じのメイクマネー的な事により目がいっていた人間だったのですが、やはり現場を経験すると違いますね、それよりむしろ現場のために何か、という頭になっています。

今の自分があるのは、単に自分が自覚的にそのためのトレーニングを積んできたという結果論でしかないわけで、他の人は当然、別のトレーニングを受けてきたから僕よりその面に関しては遥かに勝るわけです。僕は現場で色々な人と出会ってきて、自分にはできないことを簡単にやってのける人たちを見て、悔しいと思ったし、こうなりたいなとさえ思ってきました。でも自分の登る山は結局自分で決めなくちゃいけないし、やっぱり現場の人たちのために自分ができることは、現場の人たちの真似をすることではないのは確かだと思っています。同じことを二度言ってますね、失礼失礼。

あ、何かしら成果が出せたら個人発信を増やしていきたいですね。とりあえず今年度の目標は料理上手になって近所の人たちに「この人の料理は美味しいからお惣菜をもらいにいこう」と噂を立てられることです。研究とかよりハードルが高いですね。そうそう研究についてなのですが、やっぱり自分は政治学の人間なのでそれっぽいもので何かテーマを一つ作りたいと思っています。テーマ設定ができれば後が楽ですしね。そういえば今回のウクライナ戦争に関する(いわゆるリアリスト的な)国際政治学者の人たちのツイートとかを見て、改めて自分は「そっちより(リアリストより)」の人間なのだなと思いました。もちろん僕は憲法9条は大事だし安保法制はダメだし核なんぞ話にならんという立場の人間ですが、他方でゲーム理論をはじめとしたリアリズム的なアプローチがどうしても前提にあるので、共感するところもありつつ、他方でそこは違うでしょ的な思いをすることも多々あります。そうした自分の経験を土台にした感覚も大事にしていきたいですね。

というか現場の人間が何かを発信しようと思ったら一番大事なのはまずそこですしね。そういえば大学院にいたときに「あなたの政治イメージはユニークですね」と言われたことがあるんですよね。自分はどうしても丸山眞男とか栗原彬とか、ラクラウ=ムフであったりとか、フーコーであったりとか、はたまた社会運動の流れであったりとか、哲学や社会学や市政の人の「ぼくのかんがえたさいきょうの民主主義論」とかも取り込んだそういうハイテンション政治学みたいなところがどうしても土台にあるので、ここらへんも自覚していきながら書き物に還元してきたいなと思っています。野心ですね。

ちゃんと自分の山を登っていきたいですね。まぁでも心が壊れてしまっては元も子もないので、今後もゆるく楽しくやっていきたいと思います。

 

バルミューダフォンと政治

皆さんは、バルミューダフォンをご存知だろうか? 先日発売された、その性能の低さと釣り合わない価格設定で悪い意味での反響を呼んだ、あのバルミューダフォンである。

 

一応解説しておくと、会社としてのバルミューダの特徴は、独自のストーリーを製品と共に売ることによって生活スタイルそのものを提案することにあると、僕は思っている。バルミューダは自社の製品のストーリーをポエム的にウェブサイトで綴っている。文体はアップルのそれととてもよく似ているし、販売戦略もアップルと同じと言ってもいいかもしれない。バルミューダフォンのデザインはiPhone 3Gとよく似ていると指摘されている。しかしアップルのコピーではなかった。バルミューダはもともと高い家電屋として名が知れており、打ち出された10万円という価格自体はその点で見れば違和感のあるものではなかったけれど、スマートフォンである以上性能が露見しやすいという面があったのだろう。株価も暴落するなど、バルミューダは結果として自社のブランドを傷つける結果となった。今回のバルミューダフォンの失敗は、バルミューダという「高品質」な生活スタイルそれ自体への疑念を生んでしまった面がある。


僕がこの騒動で思うことは、ポエムで隠し切れる内実には限界があるということだ。たとえば扇風機なら、デザインや部屋のなかでの位置づけなどで、多少高くとも「高品質感」を覚えることができるかもしれない。実際に高品質かどうかがここでは問題であるわけではない。そのような「感」をもてることが大事なわけで、その点、それまでのバルミューダのポエム戦略は成功していたと思う。他方で、バルミューダフォンはソフト・ガジェットである以上、メモリ容量をはじめ、内容は数値として評価される。ポエムによって内実を超える高品質感を感じとることには限界があるのだ。

ポエムが良くも悪くも重要になるのが政治の世界だ。どのような世界観を提案していくかは、有権者がその政党なり候補者なりに投票するか否かの一つの指標となる。よく知られた例でいえば、「自民党をぶっ壊す」というメッセージは、それが事実であったか否かをおくとしても、「これまでとは違う自民党=政治になるのだ」という期待を抱かせることに成功した。そして強い支持は政党・候補者のパワーに直結するため、翻ってポエム自体が政治を形成する面が生じる。ガジェットと異なり政治は「中身」の性質が固定されていない。蓋を開けてみたら商品自体が変わっていることはザラにある。

立憲民主党の経緯は実は、ある程度こうした観点から捉えることができるというのが、僕の持論だ。立憲民主党はもともと希望の党との合流騒ぎのなかで生じた枝野一人のムーブメントだった(と、されている。この背景には路上の運動があったりするわけだけど、まぁ一般有権者にとってはそんなことはどうでもいい)。この時は希望の党の騒ぎが結局いつものグダグダした民主党じゃないかという感じもあってか、また枝野の熱量や「これまでとは違う」感やベースが一発屋とは異なるきちんとした政治家であったこともあってか、立憲民主党は大きく躍進した。この時立憲民主党(枝野)が提示した「右でも左でもなく、下から前へ」といったメッセージや、福山が合流するなどといった可視化されるストーリーなど惹きつけられる要素があったことは言うまでもない。ここまでは典型的なポピュリズム政治、あえていえばポエムの政治だった。

その後野党第一党となった立憲民主党は急速に「民主党」としての顔を見せ始める。単純に、自力でのパワーがない(多くの人材がのちの国民民主党にもってかれていた)ことが大きかったし、規模を拡大していく過程で既存のネットワークに依存せざるを得なかった。顔はポエマーでも身体はいつもの民主党なのだから、ポエムが続かなければ身体の方が前にくる。

 

ここで重要なことはポエムを支える支持構造であることが見えてくる。立憲民主党の立ち上げ期はこれまで路上で動いていた無名の市民たちが支えてきた面があった。しかしそれは労働組合や経済団体や宗教団体のような組織化された集団ではないから、支持動向も不明瞭だし、継続的な支援の見込みも持ち得ない。すなわちかれらを動員し続けるには「立憲」の顔を出し続ける必要があった。しかし急速な拡大に伴い「民主党」としての振る舞いがどうしても必要になった時に、かれらは離れてしまう。この背反を立憲民主党は、立ち上げ直後の大勝から強いられてきたわけだ。

今回の衆議院選挙では立憲民主党は微妙な結果を出した。数字の話はもうすでに多くの人がしているからここでは言わないけれど、問題は、立憲民主党が実に「民主党」的な振る舞いをしたことにある。つまり、野党共闘、というより共産党との共闘にケチをつけ始めたということだ。野党共闘は失敗だったかといえば、そんなわけがないことは誰にでもわかる。小選挙区制で野党が割れていたら票が分散する以上、やらないよりやった方が結果として得することは当然の理屈だ。

問題は、この野党共闘立憲民主党が消極的な視点を隠していないことにある。野党共闘に懐疑的な目を向ける真っ当な声としては、「政権を取った際のビジョンが見えない」というものがある。これは共産党との関係をいかに立憲民主党がコントロールしていくのか/いけるのかという信頼の問題にかかわる。しかし立憲民主党野党共闘それ自体、共産党との共闘それ自体に疑念をもち、また対外的にそれをアピールしてしまえば、目立つのはむしろ立憲民主党の「弱腰」な面だけだろう。次の参院選まで時間がないことを踏まえれば、立憲民主党がとるべき態度はむしろ、これまでの動きを継続させながら、個々の政策(特に経済政策)を練りそれらすべてをメッセージ化していくことだろう。ようするに、まともなブレインと威風堂々さが足りていない。そしてこれは政権を担うに値する政党が持たなければならないものでもある。

 

バルミューダフォンがそうであったように、ポエムで隠し切れる内実には限界がある。しかし政治は外枠が内実をつくっていく面が、良くも悪くもある。枝野は辞任し、新たに代表となった泉健太立憲民主党のなかでは「保守寄り」と目される政治家で既存の支持層の失望を多少なりとも買った。その一方で党役員の男女比を半々にするなど一見して「リベラル」な改革にも着手している。だが政権構想にも直結する野党共闘のビジョンは特に打ち出されてもいない。その限りで立憲民主党の選挙戦略は「小手先」にとどまっている。

コロナ禍で行きつけの店が潰れ、ビルの看板が次々と消え、エッセンシャルワーカーと呼ばれ始めた人々の疲弊の声は相次ぎ、支援も雀の涙という現状のなか、リアルな成長戦略が求められている。安保法制の時などは成長への疑念が全国的にあったのは事実で、成長より生活保障を強調することに間違いはなかったと思う。しかし今はフェーズが違うし、それゆえに「悪夢の民主党政権期」のようなふざけたデマがダイレクトに刺さる。「批判型でなく提案型」のようなことを言っている限りは野党であることが前提だから話にはならないのは当然のことで、自分たちが政権を取り何をするかというレベルで説得力をもたせなければならない。そしてそのための内実を整えていかなければならない。今の立憲民主党にはポエムも内実も追いついていない。路上の運動もない。特にコロナ禍で街中にも出れやしない。 

まるで八方塞がりのように見える。しかし状況自体はあの時から何一つ変わっていない。いまはコロナ禍で外に出にくいけれど、結局のところ立憲民主党が潰えて困るのは僕たち自身だし、かといって支えてやらないとあの政党はすぐに民主党仕草を出してくるとうのが経験的に明らかなわけだから、どうしたってこちらでテコ入れしてあげなくちゃいけない。とても面倒くさいと思う。でも僕たちはもう二十歳を超えた大人で、やるべき時はやらなくちゃいけないのだ。バルミューダフォンなら批判レビューをYouTubeにあげてやればいい。でも僕たちが生きているのはiPhoneの存在しない、バルミューダフォンのような質の低いくせにわけのわからないポエムで高い値段をふっかけてくるような、にもかかわらずそれしか選択肢が事実上ないような世界なのだ。ならこいつらを舌打ちしながら育ててやるしかない。

舌打ちしながら育てる、というのは動機付けとしても最悪だし、普遍的な解ではないだろう。しかし丸山眞男も言うように本来的に政治は「悪さ加減の選択」でしかない。僕たちの悩みは戦後から実は大して変わってはいない。

髪を切ろう

これまでは実力あったからどうこうできてたものも、異なった世界に入れば実力ゼロなので(異なった世界とはそういうものだ)、当然どうこうもならないから、やり方を一から変えなくてはいけない。「これまでと同じようなことやっても面白くないよな」というのは就活のある種唯一の軸でもあったので、ならそれはそれできちんと実現させていきたい。来年度になる前に、変われるように。気が早すぎるとしても、目標を掲げること自体は悪いことではないし、自分の中では比較的短期の目標だ。

短期/長期の区別を、僕は経済学の初級テキストで知った。気になる人はマンキューあたりでも読んでおけば問題ない。さしあたっての目標は「異なった世界に対応するにあたり、必然的に凝り固まった自分の既存のやり方を、捨てるのでなく、変えること」となろうか。こうなると随分と大仰だが、日々の仕事をこの目標に合わせていくとなると、モチベーションもまた違うだろう。うむ、やはりこれは短期目標とは言いがたい。

少し前のことになるけれど、とあるお祭りに参加した時、奢ってもらったタピオカでインスタ映えをキメている僕を見て、子ども達が群がってきた。「タピオカ君」と僕は名付けられた。うむ、僕の圧倒的なゆめかわいさに気付いたのはいい、問題はその後だ。なんとその子ども達、あろうことか僕にタピオカをねだってきたのだ。とにかくたかってきて(子どもの集団的なたかりは本当に厄介だ)、店の前でタピオカコールまでしてくる。お前たちとは死んでも酒を飲みたくはない。

出店はタピオカ400円、ラムネは残り2本で一つ100円。僕は手持ちの200数円を提示して伝えた。

「タピオカは400円だから買えない、つまりタピオカを要求してもお前達は何も得ない。しかし残り2本となったラムネは100円、よって、お前達が利益を得るには要求を下げてラムネにするのが合理的だ。どうする?」

4人ほどいた子ども達のうち、ラムネを選択したのは1人だった。結局のところ財は有限だから、そのなかで少しでも効用を最大化させていくことが必要になってくる。彼女はまさしく合理的に振る舞ったわけだ。うむ、お前には才能がありそうだ。

ところで残りの子ども達はというと、彼女たちはタピオカ連合のようなものを組んでおり、一人が「抜け駆け」したことでその結束はより強まったようだった。なにも効用は飲み物によってのみ左右されるものではなく、それこそ意思決定の際には自分のコミュニティ内での立ち位置等も問われよう。彼女たちも彼女たちでまた、ラムネを得ることはできずとも、合理的な選択をしていたのだ。加えて、財は得れば得るほど良いというものではない。たとえば選択肢が著しく限られているとして、いくら金があったところでコンビニ弁当を100個買うわけがない。お腹のキャパシティもまた有限なのである。そう、タピオカ連合の一人は事前にラムネを飲んでいたのだというのだ。なるほど、それならわざわざタピオカのかわりにラムネを飲む必要はない。むしろラムネを選択することで損をする可能性さえある(ラムネ二本はなかなか重たい)。

どのような選択であれ、合理的にそれを行いたい場合、自らにとっての合理性を左右する条件というものがあり、それは時に一見非合理的な行動を合理的にする。長期的に見て釣り合いの取れない教育への不投資は、短期的には目先の収入の優先や、そもそも教育そのものへの不信や、また長男優先型の家族文化だったりもしうる。しかし合理性を左右する条件はしばしば見えにくい。環境が全く異なる世界において、いかなる目標設定を行うべきかといった問題にしても、自分自身の足下からまず見直す必要があり、それはまさに自ら自身の物語が密接に絡んでくるがゆえに、体感レベルでの調整が求められるし、それは物語の独自性が強ければ強いほど時間がかかる。しばしば指摘されるように、我を持たせない教育というのは、それはそれで会社への適応を早めるという意味で、まさに合理的だったのだろう。

超中立的な、参議院選挙の投票の仕方

7月21日は参議院選挙の投票日だ。とはいえこれは「投開票日」とでも言うべき日であって、正確には、それ以前でも期日前投票不在者投票ができる。つまり、今は21日までをもって「選挙期間」と呼ぶべき期間であると言える。

そんなわけで選挙の話をするのだけど、ここでは「〇〇の候補者/政党に入れるべき」という話はしない。もちろん、僕には僕の意見があるし、それははっきり言って、このブログを読めば分かると思う。僕は基本的にはリベラリストなので、話の節々にそういったバイアスがあることを否定しない。ただし以下話すのは、言ってしまえば「それ以前の話」だ。つまり、一般的な「投票の仕方」にフォーカスした話であって、特定政党を応援する意図は基本的にはない(というより、この話をしただけでは特定政党や候補者の話にはならない)。

以下では、まず基本的な候補者/政党の探し方を紹介したい。紹介といっても、「このサイトがいいよ!」という程度のものなのだけど。次に、探し当てた候補者に本当に入れるべきなのかどうかについて更に踏み込んで判断するために、「戦略的な投票」の仕方を、一人区と複数区の場合に分けて、簡単に解説したい。そして、戦略的な投票という、いわば投票所で鉛筆を握っている時間のみでない、日々のなかでの選挙をめぐる呼びかけについて触れる。最後に、今回のに限らず、選挙の争点をどう見極めればいいのかについて、制度の話もちょこっとしつつ、話したい。

まぁ読めば分かるように書いた(つもりな)ので、ゆるーく読んでやってください。

 

1. 候補者をどうやって探せばいいの?

さて、「選挙に行け」と言われても、そもそも、どの候補者に入れればいいのか、というかどんな候補者がいるのか分からないことが多いと思う。リサーチする方法はいくつかあるが、個人的にお勧めしたいのが、このサイトだ。

vote.mainichi.jp

これは毎日新聞がやっているやつなのだけど、実に使える。このサイトは、20くらいの質問に答えるだけで、あなたの支持しうる政党を教えてくれる。選挙区を入力すれば、該当する候補者も見つけてくれる。色々と見てきたけれど、今のところコレが一番信頼できるから参考にしてほしい。

でも、「候補者は分かった、ならそいつに入れよう」と思ったあなた、ちょっと待ってほしい。実は、ここからが本題なのだ。

 

2. 戦略的投票のススメ--一人区の場合

政策志向の合う候補者をとりあえず見つけたあなたが次に考えるべきは、「本当に、その候補者に入れる意味があるのか」ということだ。というのも、あなたが「いいね!」と思ったその候補者は、実はとんでもなく弱い候補かもしれないからだ。そんな奴に入れたところでどうせ落ちるのだから、あなたの一票はあまり活かされない。

たとえば、あなたは自民党が嫌いで、社民党が好きだとする(たとえばの話なので、「いや逆だわ」と思う人は、入れ替えて読んでほしい)。そしてあなたの選挙区の情勢を、取り急ぎ以下の通りとする。なおここでは単純化のため、一人区を想定している*。このなかから候補者は一人しか当選しないということだ。

自民党:35%
社民党:10%
立憲民主党:30%
・その他:25%(右から左まで幅広く)

とりあえずこの選挙区では、一番人気は自民党だ。次いで立憲民主党、残念ながらあなたの好きな社民党は3番手だ。この場合、あなたが社民党に入れたとしても、あなたの願いは届かない。つまり、社民党は同じく野党である立憲民主党にも届かず、かといって立憲民主党も1位にはなれないまま、あなたの嫌いな自民党がそのまま当選することになってしまう。

ならどうしよう? 答えは簡単、あなたはこのなかで政策的に社民党に一番近い立憲民主党に、少し(かなり?)悔しい思いも持ちつつ、入れればいい。そうすればあなたはうまくいけば、あなたが嫌いな自民党を落とすことができて、かつ社民党に比較的近い政党を国会に送ることができる。事実として、社民党の10%が立憲民主党に加われば40%、自民党の35%を上回ることができる。

*なお一人区の場合は、基本的に野党は候補者を一本化しているため、こういう事態は生じません。あくまで戦略的投票の解説をするための単純化です。

 

3. 戦略的投票のススメ--複数区の場合

次に、複数区の場合を考えてみたい。複数区では、たとえば30人くらい候補がいるとして、そのなかから3人くらいが選ばれたりする。一人区が一人しか当選しない選挙区であるのに対し、複数区は文字通り、複数の候補者が当選する選挙区だ。都会とされているエリアにこのタイプの選挙区が多い。

とりあえず、あなたはまたまた自民党公明党・維新が嫌いで、社民党立憲民主党共産党をはじめとした野党を好んでいるとする。しかし複数区の場合、困ったことに、立憲民主党社民党共産党も候補者を出していることが多い(というより、仮にここで野党共闘で候補者一本化などしてしまえば、極端に言えば、6人当選する選挙区で一人しか野党議員が生まれないというアホなことになる)。

一体誰に投票すればいいんだろう? ここで、とある選挙区を想定してみよう。ここでは4人が当選することとする。そして新聞報道等を見る限り、

・1位:自民党
・2位:立憲民主党
・3位:公明党
--------(以上、当選ほぼ確定)--------
・4位:維新vs共産党
--------(以下、ほぼ落選確定)--------
・6位:社民党

ということになっているとする。うん、なんか社民党、ごめん。

さて、この選挙区ではどうやら、1位から3位まではほぼ当選が確定しているが、最後の議席、つまり4位をめぐって、維新と共産党が争っているらしい。もしあなたが立憲民主党共産党より好んでいるとしたら、あなたは立憲民主党の候補に入れるかもしれない。しかしそれでいいのか? 答えはNOだ。なぜなら、立憲民主党の候補者はすでに当選が事実上確定しているからだ。そんな決まり切った候補者に入れたところで、あなたの一票は対して効果を発揮しない(せいぜい、「わあい、自分の投票した候補者が当選したぞ!」という満足感が残るくらいだ。当たり前だろう、その候補者はあなたの尽力なくとも余裕で当選している)。

なら、誰に投票すればいいのだろう? 答えは簡単、共産党の候補者だ。前提に従えば、あなたは与党陣営より野党陣営を好んでいる。しかしあなたが立憲民主党に投票してしまえば、繰り返しになるけれど、決まり切った候補者がただ当選するだけであって、その結果、あなたの票を欠いた共産党の候補者は落選し、あなたの好まない維新の候補者が当選してしまうかもしれない。共産党の候補者と維新の候補者は、どちらも当落線上にあるがゆえに、まさに一票を賭けて闘っているからだ。

つまりあなたは、複数区においては、当落線上にある候補に入れればいい。あなたが野党を好んでいるという今回のケースでは、この選挙区においてあなたは最も好んでいるはずの立憲民主党を差し置いて、共産党に入れるべきということになる。それは、共産党へのイメージとは全く関係がないし、ましてやあなたが共産党員であろうがなかろうが全く関係ない。そして、これはあなたが与党を好み野党を好んでいない場合でも同じだ(その場合、あなたは維新に入れるべきだろう)。

 

4. 一票を呼びかけよう

以上、戦略的投票の基本のキについて解説してきた。とはいえあなたは、「でも自分の一票じゃ何も変わらないよ」と思うかもしれない。なるほどそれはその通りだ。もちろん、こうした疑問に対し、政治的責務等から訴えかけるアプローチもあるけれど、今回は別のやり方を提示してみたい(dutyみたいな議論、ぶっちゃけ耳タコでしょ?)。それが「一票を呼びかけよう」というものだ。何のこっちゃ?

実はさっきの一人区の話では、自民・社民・立民以外の25%を想定していた。もう一度見てみよう。

自民党:35%
社民党:10%
立憲民主党:30%
・その他:25%(右から左まで幅広く)

実に単純な話だ、あなたが社民党のファンならば、あなたはこの25%に働きかければいい。たとえばあなたの友達や恋人がこの25%の中にいるならば、その人を説得して、社民党に入れてもらうよう働きかけよう、ということだ。

実際問題、このうちの5%が動いだだけでも大騒ぎだ。なにせ、この25%はかなりの確率で選挙に行かない。そして現実には、今回の選挙の投票率過半数を切る勢いと予想されているから、25%どころの話ではない。つまり、あなたが働きかけることのできる余地は、めちゃくちゃあるのだ。

あなたは一票を持っている。しかし、一票しか持っていない。あなたの票はどこぞの総選挙と違い、有限だ。でも、親しい友人と選挙の話をして、その友人に社民党を気にいってもらい、かつ選挙に行ってもらえれば、一票しかもっていないあなたは、その友達の分も合わせて、社民党を応援することができる。投票所においてあなたには一票しかないけれど、しかしあなたは仲間をつくり、一票以上の影響力を行使することができる。

そして現実には、戦略的な投票と、この手の仲間づくりを両立させることが必要になる。つまり、勝ちうるベターな政党なり候補者を選んだ上で、そいつらが勝てるよう、自分の半径5mくらいから、政治の話をしてみること。日本は民主主義の国、あなたにはその権利もチャンスもある。

 

5. おわりに

というわけで、かなりざっくりと、投票の仕方について書いてみた。ここで書いたのはかなり基本的な話なので、もちろん例外もあるし、迷うケースもあるだろう。「どうすればいいかな」と思った時には、信頼できる人と話したりしてほしい。とはいえ、最初の方に紹介した「えらぼーと」で、だいたいの選定はできるとは思う。

ここで主張したことは、あなたの票は無限でないという基本的な事実だ。それゆえに、あなたは自分の一票の意義を最大化させるべく、戦略的に投票行動を行う必要がある。この投票行動は、投票所で鉛筆を動かすことに加え、日々の人間関係のなかでも行使されるものであるということ。主にこれらのことを、この記事では話してきたつもりだ。これらのことについてはあなたの政策志向とは無関係に話せることなので、取り急ぎ、ここまでの記述について、僕が特定政党および候補者を推す意図はないということを、改めて強調しておきたい(あ、社民党は、なんか本当にごめん)。

最後に、政策について少し触れておきたい。といっても細かい解説をするつもりはない。今回の選挙は何が争点かいまいち分かりづらいように思う。ここで話しておきたいのは、議院内閣制の基本的な仕組みだ。

「野党は反対しかしない」としばしば言われる。そんなことないんだけどね、という反論はさておき、そもそも議院内閣制においてはそれが正しい野党の姿なのだ。どういうこと? 単純な話で、多分、「三権分立」という言葉は、一度は聞いたことがあると思う。立法・行政・司法がそれぞれ分立して互いを抑制しあって・・・みたいな話だ。でも、ちょっと考えてみてほしい。日本は立法と行政が繋がっていないか? 事実、国会(立法)で多数派を占めた自民党(と、公明党)が、そのまま内閣(行政)を司っている。それ、本当に三権分立なの? そう、答えはNOだ。だから原則として三権分立を掲げているとしても、日本は、というより議院内閣制の国においては、正確にはそうではない(なおアメリカのような大統領制では、立法と行政はそれぞれ全く別の選挙で選ばれるかたちをもっているので、わかりやすく三権分立的だ)。

じゃあ、いったいどうやって権力を分立させているのか? その答えの一つが野党だ。つまり野党は、立法-行政に対し反対の立場から、問題点を提起し、争点を可視化し、世論にそれを訴えかける。もちろん、野党のかたちが調整型か対立型かというニュアンスの違いは国ごとにあれど、基本的な野党の仕事は、まさに「反対の可視化」だと言って良い。つまり野党は、連携する立法-行政という強大な権力を、言ってしまえば相対化する機能を果たすことが期待されているのだ(もちろん、与党は反対なんかされたくはないし、自分たちの政治運営は滞りなく全く問題なく進んでいると世論に見せたいから、野党の存在が鬱陶しい(みんなも、もしその立場になったら、そう思うでしょ?)から当然、争点は隠したいし、ぼやかしたい)。

よって、もし「今回の選挙、何が問われているのか分からないよ」と思ったら、真っ先に野党の声に耳を傾けてほしい。これは、仮に立憲民主党とかが与党で、自民党とかが野党になった場合も同じだ。対立軸を明確にするという点において、日本の野党は(ある程度)信頼できるというのが僕の見立てだ。当然、自民党はそれをうまくかわそうとするだろう。だからあなたが争点に悩んだ際の順序は、

①まず野党の声に耳を徹底的に傾ける
②その声に、与党がいかに(誠実に)応答しているかを見る

ということになる。ぶっちゃけ各政党のマニフェストとか見ても、大抵は似たような綺麗なことばかり書いてあるし(もちろん微妙な違いはあるけれど)、ポスターとか選挙公報なんてさらに酷い。というか、新聞とかでよくある各政党の公約比較とか、見てて分かるかと言われれば、あれで完璧に分かったという人の方が正直疑わしい。

さて、ちょっと長くなってしまったけれど、以上が今回の参院選の最低限の投票のススメということになる。ちょっとでも参考にしてくれれば幸いです。見てる人がどれだけいるかはわからないけれど。