Good afternoon

基本的に乃木坂について書いていくつもりです。自分の言葉に責任を持つ気が毛頭ない人たちが中の人をしており、それが複数名います。ご容赦ください。

いろいろなこと

前回書いた記事が予想以上の反響というか、ビュー数で、なんていうか、ありがとうございます。最初数字を見た時はおいおいネットで叩かれてんじゃねえだろうなと思ってたのですが見てみたら暖かい目で頑張れ的な感じのようで、本当に感謝です。ちなみにジム通いはちゃんと続けています。目に見える成果はまだ出てませんが(そりゃそう)、ちょっとずつ実っていけばいいなあと思っています。

G7について思うところがちょっとだけありまして今回書いているんですが、基本的に岸田は頑張ったな、と思っています。広島という地で、資料館にも案内させたというのは結構なことでしょう。ゼレンスキーにもってかれた感もありますがそこは仕方ないですよね。もちろん、広島ビジョン(だっけ)が核抑止を是認する内容であったことについて思うところはありますし、とくに被爆者の方々からすればとても容認できるものではないというのも分かります。核兵器禁止条約へのコミットも見えないですし。しかし自民党という政党で、今この世界状況で、広島の惨劇をG7首脳たちに見せつけたというのは、もちろん十分ではないしあくまでスタートに過ぎないとしても、でも大事な成果だと思っています。

被爆者の方々の高齢化という問題は今に始まったことではありませんが、しかし年が経つにつれ(当然)ますますその問題が切実になっていき、被爆者の方々や、その周辺にも焦りはあると思いますし、しっかりと立場を示しつつ、言葉を残していかなければならないという思いもあるはずです。Twitterとかを見ていると、今回のG7でのあれこれを叩く声と、それを「現実主義」的な立場から批評する立場があるように見え、もちろん双方それなりに理はあるわけですが(しかしどちらかに自分の立場を入れるのであれば後者になってしまっているのは事実です)、でもやはり被爆者の方々の切実さを思い起こさなければならないなあと考えてしまうのです。

どうしたって残された時間は少ない。それなのに核兵器の数は増え続けている。数字上減ってみせたとしても1万はゆうに超える数があるわけです。たった2発であれだけの惨禍を生み出したというのに、今じゃその時より遥かに性能のいいブツがそれだけの数ある。大国たちは睨み合っているし、そのうちの一つはウクライナに侵攻しているわけです、核をちらつかせながら。こうした状況で被爆者の方々の気持ちたるや、という感じですよね。繰り返しますが岸田は頑張ってくれたと思います。広島の政治家で、支持層への配慮みたいなところもあるでしょうが、しかし本人も思うところはあるんでしょう。でもまだまだなんだ、という現状と、そして危機感とを、同時に持っていてくれたらな、とも思います。まあ持ってるとは思うんですけど。

というのが僕の立場というか、雑感というか、まあそんなところです。そうそう、この前懐かしい奴らに会ってきました。今の仕事を始めて結構のんびりやさんになったかなと思ってたのですが、いざ久々に会ったら当時のノリに戻っちゃいました。これは良し悪しですよね。昔の仲間には昔のノリがあって、だから安心できる面がある。でも昔のままじゃだめだなとも思うのです。そういう時でも、ちゃんと今のノリを打ち出せるようにならないといけない。コロナの関係もって昔の仲間たちに全然会えてなかったんですが、もうぼちぼち交流をもって、そこでも今みたいなのんびり屋さんになれるようにならなきゃ、自分は変わったとは言えない。

他に書くこともないなあ。そうそう最近思うのですが、家事やってますみたいなこと言うと「頑張ってるね」みたいに言われるの、あれ意味わかんないですよね。そりゃやりますよ。今自分には大変ありがたいことに一緒に住んでるパートナー様がいるのですが、自分がシフト制なのに対し向こうは土日祝日休みなので(羨ましい)、休みのタイミングがずれてるんですよね。僕が平日休みで向こうが出勤、パートナー様帰ってきました、「おかえり、飯作って?」、意味わかんないですよね。お前休みなんだから作れって話なわけです。というわけで作ります。洗濯や掃除もしますよ。掃除は自分ではなくルンバがやっていた模様。

自分が男だから褒められたりするんだろうなと思うのです。もし自分が女だったら言われないだろうなあと。この辺の意識が変わっていけばいいと思うし、変わっていかなければいけないと思います。まあ今は男女双方正社員として働いていかないとやっていけないですし、その流れで当然家事の分担もよりフェアなかたちに変わっていかざるを得ない。昔の男性稼ぎ主モデルに対して言いたいことは腐るほどあるのですが、とりあえず今はそうはいかないので、少なくとも職場や政治が、家事の平等な分担を支えてくれるような感じになってくれるよう、こちらからも声を出していかないといけないですね。結局政治は市民が声をあげることからしか始まらないので。

声を出していくことが大事だと思っています。生活で忙しいし、生活を楽しみたいし、仕事は楽しいけど大変。でもこういうことに関しては税金納めるみたいなもんなのかなと。やりたくないけどやらなくちゃいけないからやる、みたいな。日々を過ごすなかで変わっていったり、また変わらなくちゃなあと思うことだってあります。それでも大事なことについては、声をあげていって、変えていかなくちゃいけない。変えなくちゃいけないのは自分だけではない。自分が変われば世界は変わるみたいな論調はあまり好きではなくて、そりゃ自分が変わるのは大いに結構だけど、お前一人が変わったところで世の中に事実としてあるアンフェアは変わってねえよ、と思っちゃうんですよね。

そして本当に変えるつもりの人間は往々にして戦略的でもあります。なんか結局この手の話になっちゃった。まあ、健全な思考は健全な筋トレによって育まれる健康的な身体が基になっていたらいいよね、ということで。

筋トレ、はじめました

というわけで(どういうわけで?)、筋トレをはじめました。ちなみに私はこの書き出しが好きなのです。

正確には再開しました、となります。再開と言えるのか実際は微妙なところですが、まあ心もちの問題として。高校生の時に筋トレを結構しっかりしていたのです。といっても31歳のおじさんが高校生のときの懐古をしても害悪でしかないんですけどね。あれから10年は経っているわけですし。

そもそも何で今さら?っていう話ですよね。前にも書いたのですが昇進してしまって(本社さま、降格待ってますよ!)、どうにも朝型人間になることを強いられているのです。こちとら大学に入ったあの日から夜型人間になっている元々朝が苦手なボーイだったので切り替えるのが辛い。まあ無理にでも切り替えるのですが、そうなると休みの日の朝の過ごし方がよくわからない。なんか、朝から飲むのは気が引けるんですよね。

というわけで元々再開したかった筋トレをやってみたのです。今日は2日目。シフト制でだいたい3日から4日間隔で休みがあるのでちょうどいいといえばちょうどいいのです。

ちなみに私のフィジカルを公開いたしましょう。170cm弱、50kg弱です。ガリガリボーイの典型ですよね。お前は家で腕立てから始めろって? 僕もそう思います。でも僕は場所を変えないとどうにもうまくやれないタイプの人間なのです。ジムにいるマッチョ達、すまんな。でもここは市民に開かれた場所だからお前達の専有物じゃないからね? まあここからどこまでいけるかですね。取り戻すことが先決ですがそれも叶うかどうか。ちなみに高校の時はマックスで60kgちょいありました。当時は運動してましたからねえ。逆によくここまで落ちたもんだ。

さて初日ですが、自分のできなさにびっくりしました。そりゃそうだって話なのですが、まあ酷い。ただ現状を知れたのは良かったです。ここから始めなければならない。基本的に(ここ大事)肉体は嘘をつかないので。村上春樹のランニング本、たしか、走ることと僕の考えることみたいなタイトルでしたが、あれは諦念のプラグマティズムみたいなところがあって、まあそんな感じですよね。とりあえずここから始めるしかないのです。

2日目、今回はランニングも交えてみました。疲労度が違いますね。これですよ私が求めていたのは。

さて、こうなると早起きできるかが肝心です(というか元々それが肝心なのですが)。仕事の日は嫌でも起きなくてはいけないのですが、夜勤の日、僕は華麗に寝坊してしまいました。9時に起きたかったのですがあと10分を繰り返し結局11時でいつもの時間。ほとほと自分にがっかりしました。こんなんじゃダメなのです。というわけで何があっても朝7時には起きることにしました。

と言いつつ今日も結局8時起きとかだったんですが。こればっかりは矯正していかなくちゃいけませんね。

さて、僕がとりあえず行っているところは1回500円とかなんですが、いや高くない? 地元だったら300円で、しかも回数券システムがあって3000円で11回分、一回分お得みたいな感じだったのに(高校生の時だけど)。こっちは回数券もないし令和のこのご時世にICカードも使えない。ちょっとこれは行政の怠慢じゃないですかね。っていうかタバコ税を上げるのに健康増進みたいなこと言ってるのならスポーツセンターとかはむしろ安くしてくれませんかね?

とまあグチグチ言いながらも、とりあえずここから始めていきます。これ何度も言ってますけど、大事なことだと思っています。政治でも何でも、現状の上に立つことが大事ですからね(この点右も左もたまに背伸びを超えて空飛んでるところから物言ってる人がいて困りますよね、背伸びくらいなら全然良いと思います、むしろ大事)。

それと新聞を取り始めました。これは先ほどの話と矛盾するようですが、ちょっと世の中から離れて自分の目の前のことに集中しようと思いずっと取ってなかったのを、さすがにもうおじさんだしな、ということで再開したのです。が、困ったことに新聞を読まない生活を続けていると、いつ新聞を読めばいいのかって話になるのです。仕事の日は読めないですからね(電車の中は小説を読み、朝は早くそんな時間はなく(5時起きですよ)、夜は遅く、翌日も早い)。とすると休みの日に溜まった分を消化することになるわけですが、まあボリュームが多いし、何よりつまらない。昔の自分、これよくできてたな。まあ新聞なんてあってもなくてもどちらでもいいので(こら)、変更や解約も選択肢に入れつつ、自分のペースを掴んでいきたいと思います。

本当に嫌々ながら昇進してしまい(本当に嫌だ)、朝型人間になることを強いられ、日常のあり方が変わってきています。まあ朝型生活はいずれそうならなくちゃいけないので、いいタイミングだと思うしかないですね。自分の身体や諸々の習慣もまるっと、でも少しずつ変わって、また変えていって、良い感じで朝日を迎えていきたいところです。

目下の悩みはカメラを買うかどうかです。安くても15万。高いですよねえ。。。

美容院で1時間待たされたンゴ

まあタイトルの通りでして、美容院で1時間待たされました。15分くらいで席移されて、15分くらいまた待たされて、あれおかしいぞと。もう30分経ってるぞと。俺16時に予約したのにもう16時半だぞと。そしてさらに待たされ、もうこれはいっそ17時まで待ってやろうと。そして誰も来ない。この間誰も来ない。

17時になりました。さすがにもう無理だわと思い席を立ち、カウンターにしかスタッフさんしかいないのでカウンターまで行きました。「あの、1時間待たされてるんですけど」「すみません」「」「帰られるんですか?あと2, 3分で入れますけど」

おうおう、1時間待たされたんだけどなあ。まあこっちも1時間無駄にさせられているので他のとこを予約するのもだるいし、2,3分なら待ちましょう。もうこの美容院に来ることも二度とないだろうし。そしたら来ました。ちなみにその間にアシスタントさん的な人が突然無言でタオルとか首に巻いてきました。内心びっくりしましたが正直イライラしていたので黙していました。内心びっくりしてましたけどね。

で、来ました美容師さん。まあ前の人が長引いたとかそんななんでしょうね。「お待たせいたしました」ときました。うん、待ちました、1時間。でもそのトーンは10分待たせた客へのトーンなんだよなあ。

 

というわけでこの美容院にはもう行きません。向こうさんももうこっちが来るとは思ってないでしょう。そして僕は一切怒りませんでした。内心腑にえくりかえってましたけど、それを表には出しませんでした。というのも元々昔々のこと、自分は本当の本当に恥ずかしながらキレがちな若者で、でもそういうのって嫌だなと思い、かなり自覚的に怒らない優しい人間になろうと努力してきたのです。1時間待たされた? 素晴らしいじゃないですか、その間いっぱい読書ができますよ!

でもそういうのって実はよくないんじゃないかと思ったのもまた事実です。怒るべき時に怒らなければいけないのではないかと。適切なかたちで。

子どもの頃、家族でマクドナルドを頼んで、オーダーを間違えて親が怒っていたりしているのを見て、「そんな怒らないでよ」とか思っていました。でもそれは大人としてあるべき立場なのかなと。事実、後年そのことを親に聞いたら「子どもを守る立場だったんだ」みたいなことを言われました。これは責任感ですよね。責任ある大人は然るべき時には他人に怒らなければならない。

 

とてもとても嫌なのですが、昇進してしまいました。これからは他人に指示したりする立場になります。ほんのりまったりゆったりテキトーに流そうとしていたんですが、まあこれも機会ですね。ちゃんとした大人になっていきたいものです。きちんと人に言わなくちゃいけないことをほんのりまったりゆったり言える感じですかね。そして少なくとも、客を1時間待たせる間に「すみませんね、待たせちゃって」と頭を下げれるような。

AIは何の夢を見るのか

最近AIがやばい。

というのは周知の通りで、実際やばい。chatGPTでしたっけ、何か質問したら返ってくるやつ、3がまあ話題になってましたがすぐに4が出たとかで、来年くらいには30くらい出てるんじゃないのかってくらいの勢いですよね。

これは個人的には結構やばいと思っています。

まず僕が一番に想起したのは小説、特になろう系小説です。僕が最初に読んだのは転スラで、その後もちらほら読んできましたけど結局フォーマットができてる面があるんですよね。で、それならもうAIで書けちゃうんじゃないのって話でもあったんですが、これは書けますね、はっきり言って。設定を組み込みさえすれば余裕でしょうし、なんならその設定さえも学習させてしまえば人いらずってところまで1年もたないんじゃないかとさえ思ってしまいます。

これの何を危惧するかというと、小説というもの自体が危機に瀕しかねないからです。たとえば村上春樹とか、もう絶対的な名声をもっていて、この人の文章を読みたい、となっているものに関しては生き残れるでしょうが、そうでない有象無象で、とりあえずお話を目で追いたいくらいの扱いの小説だったら、ならAIでいいじゃん、ってなりますよね。とすると小説家にとって大事なのは文章力よりも(まあそれは前提なんですが)小説家個人の名前だったりするわけです。

まあこれ自体は前からそうだと思われるかもしれません。この絵だから見るんじゃなくてピカソだから見てるんだよ、みたいな。とはいえそこが前面に出てくるとなると話はまた違ってくるのかなと。だって言ってしまえば遠からずピカソは機械で再現可能になっちゃうみたいな話ですからね、これ。書き手の名前が違うだけなんですよ。少なくともこの短期間の進歩はそれを思わせるほどのものです。

ふと思い出すのは大学院にいた頃ですね。僕のいたところは東大みたいな大きいところではなかったものの結構優秀な学生さんの集まるところで、そんな学生さんのリアクション・ペーパーを読む機会もそこそこあったのですが、まあ何ていうか、よく書けたくそつまらない文章なんですよね。そして構成がだいたい同じという(これ自体は悪いことではないです、みんな同じことが出来るというのは予見可能性を高めることによって効率向上の一助になるので)。で、現に大学教員の人たちが危惧しているのがレポートをAIで書かれちゃうんじゃないかってことですよね。書かれちゃうと思います。そしてちょっと手を加えればもうAIが書いたのか本人が書いたのか分からなくなるでしょうね。

っていうか学術論文だって怪しくなりかねませんよね。新聞記事だって調査報道ならまだしも発表を受けての記事ならAIで記事を自動生成しちゃえば済む話ですし。

何がやばいか。言葉が、本格的に人間の手を離れようとしていることです。だからこそ生き残り戦略として、言葉よりも個人がより重要になりかねない。これは意味世界において一つの敗北でもあるでしょう。結局何を言ってるかより誰が言ってるかなんかーい、っていう。

そして雇用も大きく危ぶまれるでしょうね。この点にかんして、僕は文系に属していたので思うところが一つあって、文系の人たちのこれまでやってきた密教的なところは、実は今後の生き残り戦略として機能するのではないかってことです。chatGPTとかのやってることって、それっぽい文章の生成と、あとはネットを駆使した情報の引っ張り上げなんですが、文系の人たちってわりかしネットベースでの情報発信が弱かったんですよね。他には政治関係ですかね。ほら、たとえば共産党の内部事情とかってまあ密教的な話になるじゃないですか。そうそうwikipediaとかに細かいニュアンスとかは載っていない。となるとそこの情報は引っ張ってこれない。とすると密教的なやり方は自身の生き残りのためには良いのかもしれません。もちろん当人たちにそのつもりはないとしても、たとえば経済学だったら数理モデルの論文がネット上でオープンにされていて、そちらの人たちの方が多分危機感は強いのかなと。まあ時間の問題といえばそれまでかもしれませんが。あっそうそう雇用と関連して議事録をAIに頼んだらまあ優秀すぎたみたいな話がもうあがってますね。そりゃそうだ。

さてそれと関連して、たとえば真っ当な議論みたいなものって悲しいかな、ネットベースよりもちゃんとした本とかオープンアクセスになるのに何年かかるみたいな論文だったりとか、そういうのがどうしても出てきたりするんですよね。で、当然手に入りやすい情報が先に出てきてしまうとなると、ヘイトとかデマとか、その手の言説(つまり緻密な調査も一切必要としないゴミみたいな作り話)が前面に出てくる恐れがあります。この点、chatCPTなんかはヘイトとかをブロックしようとしているみたいですが、でもそれって何ていうか「相手ありき」みたいな話ですよね。非常に危ない橋ではあります。

ところでAIについてよく言われるのが「人間は感情の生き物だあ」ってことですよね。そこに異論はないのですが、実は私ケアのお仕事しておりまして、そこで見る光景といえば、おしゃべり人形に認知症のおばあちゃんが元気にお喋りしてるってアレなんですよね。これオムツ交換とか掃除洗濯とか加えたらもう俺らいらないんじゃないか? 感情どうこうの話も案外すぐに乗り越えられちゃうのかもしれませんね。

でも僕たちは生き続けなければならない。僕たちは生きて、雇用がなくても寝て夢を見る。でも夢の世界も結局AIの跋扈する世界なら、じゃあ僕らの生きる世界って何なんでしょうね。

 

歳をとることについて

この前、会社で新卒入社した人たちが集まる会(一応フォローアップ研修ということになっている)があった。一応自分も新卒入社の枠だったので参加した。

内容自体は別にそんなに面白くはなかった。というか、何を話せばいいんだろう、というのが皆の実感だったと思う。知らない人も多いしね。喫煙所での会話の方が盛り上がっていた。人は何かを挟んだ方が往々にして会話を進めることができる。

さて、実は新卒メンバーズの中でも僕は一番歳上だった。他は20代前半とかが多く、僕の同期とかも結構やめていた。そして僕が話を聞いてて思ったのが、悩みの質が違う、ということだった。

別に僕の悩みの方が高貴だぜえ?みたいは話ではない。たとえば残業が多かったり不安定な勤務だと僕にとっては困る。なぜなら結婚とか子育てとかをどうしても意識してしまうからだ。他方で彼らにとってそれが困るのは、もちろんプライベートな時間が削がれることだったり、単純に疲れるとか、そういうところになってくる。どちらも似ているようで微妙に違う。

これは単純な年齢の層の違いによる悩みの違いだと思う。まあもちろん20代前半でも僕と似た悩みをもつ人は多いだろうけれど、まあ同じ会社の新卒メンバーということもあってか、わかりやすく年齢で違いが出た面があったのかもしれない。

 

研修より盛り上がった喫煙所トークで、20代前半の子から、職場で「若いから大丈夫だよ」みたいに言われるのがむかつく、という話を聞いた。僕も同じくらいの時にそういう言葉にむかついていたんだよね、と返した。若いから何だよ、お前もがんばれよ、そして俺はお前みたいなくたびれたことを言う大人にはならないぞ、と思ったものだ。

実際には、僕は似たようなことを見事に言っているくたびれた大人になっている。家系だってもう昔のようにスープまで飲み干せない。いずれ「味濃いめ油多め」もできなくなるだろう。

順当に歳をとっている。

他方で僕の心には、まだ17歳くらいの、いきがって体力もあり、家系はスープまで飲み干さなければならないという宗教に入っている、そんな僕自身がまだいる。なんなら小学校2年生くらいの自分もいたりする。そういう奴らがたまに調子に乗って、現在31歳の僕に、初めて入った家系で中盛を頼ませたりする。そして僕は深く後悔する。

 

そういえば初対面なのに僕に思いっきりタメ口をきいてきた人がいた。新卒の人たちの取りまとめ役的のようだった。誰だお前、舐めるなよ、と思う一方で(言い訳じゃないけれど、17歳のいきりボーイでなくても、初対面の人から思いっきりタメ口を使われたらさすがに「君は誰だい?」とはなると思う)、別にどうとも思わない自分もいた。タメ口をつかわれたくらいでいちいちどうこう思うのもねえ。そしたら何と僕と同い年だったことが発覚、その人は多分僕のことを歳下だと思って接してきたわけだから、ちょっとだけやりづらそうだった。ごめんね。

色々な感情が僕のなかにあった。そういう感情の選択肢が増えていくことは、ひょっとしたら歳をとることの良い面なのかもしれない。

単純に歳をとることそのものが与えるものもあると最近思ってきた。もちろん、単純に歳をとったって意味はない、大事なのはそこに意味と価値を与え経験にすることなのだ、みたいなことはよく言われるし、僕もある程度はそう思う。実際、「目上の人を敬え」という言葉が昔から苦手だった。単に歳とってるから何だよ、みたいな。そういう人のとってくるマウントは実際に苦手だった。でもその人たちは少なくとも僕よりも歳をとっていて、その分色々な景色をみてきて、色々な感情を抱いてきたのだ。

マイナス面だってもちろんある。体力はなくなってくるし、子どもができたら貯金も難しくなるだろうし、変なしがらみも増えてきて、身体が痛んだりする。そうなってくるとダメージの少ない若い人がきっと羨ましく見えてくるのだろう。僕だって小学生とかを見ると「この子たちにはいっぱい未来があるんだろうなあ」とか考えてしまう。

と、30代なりたてボーイの僕が言ったところであまり説得力はないのだろうけれど。他の新卒の人たちは今後どんな人生を歩んでいくんでしょーね。ハッピーであればとても良いと思います。色々な人生があるので、とりあえず生きて、できれば楽しく生きていきたいですね。そして清く正しい老害になりましょう。

 

 

(追記)

ところでなんですが今日久々に天下一品を食べました。僕はどうしてか昔から日高屋天一には偏見があり(あと二郎系)避けてたのですが、元々行こうとしていたところが空いておらず、まあ社会勉強だと思い、近くにあった天一に入ったのです。

結果としては中々悪くなかったです。なんやかんやスープも飲みましたしね。こってりも悪くないなと。歳を取るということは単純に若い頃の偏見から逃れる可能性を含むのだなと思いました。ひょっとしたらいずれ苦手オブ苦手な卵も克服できるのかもしれません。

帰り、少し横になると自分の息が天一まみれだったことに気づきます。あれなんか気持ち悪いな。やっぱ無理だわ、すまん結構俺は若い頃の偏見から逃れたねえやと思ったところまでがワンセット。

 

 

どうして自分は政治学だったんでしょーね

と、いうことを考えてみた。理由は色々あると思う。

まず経済学と政治学をなぜか対比で考えていた。経済学をやっていた人が身近にいたのでなら政治学、みたいな。あ、そうか。政治経済って科目があったからかもしれない。これ法経済って科目だったら自分法律学に行ってたかもしれないですね。

ワンピースの影響もあるかも。高校生くらいの自分は国際連合の存在は知っていて(えらい!)、それは要するに世界政府みたいなものだと思ってた(残念)。だからそいつらを何とかしちゃえばとりあえず世界平和、みたいな。なんて頭の悪い高校生。でもまあそんなもんか。いやそんなことないわ。でもそういう感じで政治を気にしていたのはあるのかもしれない。

大学に入って丸山眞男のことをよく聞かされていて、実際に読んでハマったのは大きいと思う。文体が良かった。あと授業が理路整然としていて面白かった先生が政治学者だったのもあると思う。なぜか仲の良かった先輩とかも政治学をやったりしていた。3.11以降の日本は政治が色々と問題になっていた。周りがあまり勉強をする人たちでもなかったのと、ごく一部の勉強するタイプの人たちは哲学とかだったので政治学の知識で比較優位を持てていた面もある。

でもこれって結局政治学をやり始める理由にはなっても、そこに入り込んでいく理由にはなってない。もしかしたら実際に自分は政治学に入っていなかったのかもしれない。大学院の最初の方とかは図書館の家族コーナーとか行きまくっていてあれ俺の研究科ってどこだっけってなってたし。でも最終的には政治学コーナーに結構行っていた。まあそれが必要だったからなんだけど。

自分が面白いと思った本。向山恭一『対話の倫理』。あれ何が面白かったんだろう。というのも当時は読んでて全然わからなかったからだ。特にマルクス主義っぽい話の章。一通りそこら辺を勉強してようやくやばさに気づいた。エモい本だった。政治学は未来に常に可能性を残すテンションの高さがどこかにある。自分は結構エモい人間なのかもしれない。

フェミニズム政治学』。聴講したゼミで最初に読んだ本で何が何だかさっぱりわからなかった。大学院で再読してようやく「さわり」をつかめたと思う。でも公私の区別みたいなところとか、リベラリズムの理屈とか、そういうのは直感的にその時に入っていたのだと思う。たぶん。

『女性のいない民主主義』。理屈抜きで面白かった。きちんと政治過程論の議論が入っていて、それは自分が勉強していたところでもあった。既知の物を確認できるのはやはり楽しい。

『公衆とその諸問題』。これを最初に読んだ時はまあ上がった。ものすごく直感的に入ってきた。自分という感覚、身体一つから世界を広げていって構想する国家論みたいな感じがして、まあこれがプラグマティズムとの出会いでもあったのだけど、当時自分は栗原彬にもはまっていたから、かなりぐっとくるものがあった。

『リアル・デモクラシー』の宮本太郎章。結構保守的な内容でフィットした。個人的にテンションの高い人は苦手なのでこの手の議論には「わかるー」となった。経路依存性とかを強く気にするようになったのもこの頃だったかな。今の自分の持ち物を気にしないことには前に進めない。

有斐閣アルマの『政治過程論』。古い本だけどめっちゃ面白かった。何が面白かったのかはよくわからないけれど、政治を理屈で語り尽くそうというところが好きだったのかもしれない。そういえば岩田規久男さんのミクロ経済学の教科書も面白かった。最小限の数学で(全く使わないわけではないのが良い)しっかり理屈で説明してくれて図書館でテンション爆上げしていた記憶がある。数学を全く使わないマンキューも初読でやばかった記憶。

岡真里さんの『記憶/物語』、やばかったですね。文学で叩き潰しにきている感。くらいました。感想うっすいな。ごめんなさいこれは私の読解力&記憶力のなさ故です。

 

、、、と、色々挙げてみたけれど、結局自分の軸ってなんなんでしょーね。世界を変えること、あるいは変わっていくことには興味あるけど、でも経路依存っぽい感じなんでしょーか。よくニュースとかをみていて、自分は保守的な人間(悪く言えばつまらない人間)なんだなと思うこと多いし。やっぱり今いる日常を愛したいんですよね。でもその日常の中で傷ついている人もいるわけで。あともう一つの軸としては文体と理路整然みたいなとこなんでしょーね。文章できちんと説明されているっていうところ。違うな、「おさまっている」感というか。別に全ての伏線とかが回収されなくてもいいんですよ。ただちゃんと枠内に入っているというか。きちんと順序をもって。ああはい、私A型です。そして物語性はやっぱり大事にしたいのかもしれない。ある種のエモさとか。さっきの順序どうこうの話でもありますね。それとプラグマティズムみたいな肉感のある話とか。

政治学、こうしてみると、ハマるのも分かりますね。社会学じゃなかったのは不思議でもあるけれど、多分君は世の中を斜めから見るフリをし続けて、でも世の中を諦めきれない、自分の肉感とか大切な人の感性を尊重しながら、まあそういう感じなんでしょうね。それでもやっぱりフェアな世界は求めていきたいですよ、みたいな。こういう人結構いるんじゃないんですかね。現実政治に興味ゼロの政治学とか、めっちゃ面白そうじゃないですか?

 

あっこれは追記なんですがゲーム理論はやっぱり外せないですね。相手の内奥を理解しないことには戦略もへったくれもない。そこを踏まえた上でないとわかったとは言えないところ、あると思います。こうしてみると自分、嫌な奴ですね。ルフィみたいな主人公にはなれないんでしょう。ざんねん。あーそうそう面白いのが繰り返しゲームの話で、相互不信に陥ってる同士も意思疎通できている状態なら均衡が変わってくるみたいな話があるんですよね。相手のことなんて実際よくわからないし難しい。でも探り探りの内に均衡が変わってくる。関係性のなかで行き着く場所が変わってくる。あるあるですよね。よく知り合った連中だったら忖度って結構できるじゃないですか。あいつはこう動くだろうな、こうしたいだろうな、なら自分はこう動くか、みたいな。この人はこういう愚痴を言っている、この人のキャラ的にこの人の口ぶりからここまでは正しくてここら辺は誤解入ってるかも、ならこういう助言が役に立つかも、とか。

 

テンション

今日は(今日も)夜勤だった。夜勤は2人でやる。今日の相方は先日自分を実にストレスフルにしてくれた上司様だった。まあ上司様の言い分もあるだろうがやられた側はどうしたってイラッとしてしまうのだ。こういうのは数週間後くらいに「まあ、あいつの言っていることも分からなくはないかな」となるのを待つしかない。すぐに「はいわかりました!」とキラキラする奴は基本的に信頼ならない。

結構忙しかった。事故のない平和な夜勤ではあったのだけど、しかし色々と対応に追われることが多く、しかもどうしても優しさマックスモードを強いられる場面もあり、結果、いま僕はなかなか不思議なテンションになっている。今なら恩師のように菩薩のようなノリで講演の一つや二つできそうである。

ところでどうして先日あれこれ言われてしまったかというと、急遽僕が昇進することになってしまったからだ。そんな目に遭わずにのらりくらりとまったり働いていたかったのだけど諸般の事情により仕方なくこういうことになってしまった。もちろん仕事を通した成長は大きいものがあると思うのでやってみたい気持ちはあるのだけど。しかしまあなってしまうものは仕方ないから頑張ろうとは思うけれど、やはり話がまあまあ急だったこともあり、上司は「このダラけきったこいつをしっかりさせなければいかん」となっているのだ。

もっともだ。僕が上司様の立場なら全く同じことを思うだろう。

上司様からは「自分のだめなところをちゃんと自覚して仕事に臨め」と言われた。イラッときたけど、その通りだと思う。結局のところ人は自分の弱所を認めてあげて、それとの付き合い方を覚えていくことからしか成長しないのだ。まあ上司にそこまでの意図はあったとは思えないけれど。そしてまだイラッときていますけど。

あ、数週間後にはまあ、あいつの言っていることも分からなくはないかな」と思ってると思うので安心してください。しかしこの「思ってると思う」構文は嫌だな。何か他の言い方ないだろうか。

さて、上司様は実はこの日身体を痛めていた。理由は言わない。酒が原因とか絶対に僕は言わない。そして僕はさすがに辛そうだし変われる仕事は極力変わった。とは言いつつ上司様も極力自分で仕事をしようとはしていたから、結局それなりに無理はさせてしまった。すまんな。僕が不思議テンションになっている理由の一つにはこうした事情もある。自分よりできる上司を気遣うというのはあまりない経験だ。入職したての後輩と夜勤を組む時とかは当然僕も気を使うけど、今回はちょっと気の使い方の性質が異なる。

誰かに気を使うというのはとても疲れることだ。その人のニーズは何なのかを汲み取るのは大変で、実際問題よくわからないことの方が多い。気を遣ったつもりが向こうの気分を害することもよくある。その度に「めんどくせえな」と思ってしまう。そしてそれがイライラにつながったりすると良くないテンションになっていく。

また、突然気を遣わなくちゃいけない場面がある。たとえば他のことをやらなくちゃいけないときに突然利用者Aさんがやってきて「ねえこれやってよ」と言ってきたりする場合だ。これは小さなことから便失禁しました転倒しましたみたいなケースまで幅広い。そうなると自分の作戦が一気に崩れたりするので「えーっと、どうするかなえーっと」みたいに頭を回転させなければいけなくなる。当然、とても面倒臭い。そしてこういうことがしばしば起こる。結局、その都度その都度対応しながら作戦をどんどん変えていかなくちゃいけない。

僕に介護の才能はないと思う。それははっきりしている。僕は典型的な運動神経のないタイプの人間で、さらに思考が遅い。この「遅い思考」みたいなのを誰が言ったのかは忘れたけれど、思考の早いタイプの人はようするに頭の回転が早い。その場でパパパッと解を出せ、そして行動に移せる。判断が早く的確だ。それに対して僕は思考がノロマもいいとこだ。じっくり読んだり見たりして考えることしかできない。こういう人間は基本的に介護をはじめとした現場仕事に向いていない。それでも結局のところ現場にいるのだから、やるべきことを、才能がないなりにやっていくしかない。その場その場で対応しながら、苦手ななりにその都度作戦を更新し、実行していくこと。目の前のことにセンシティブになり、きちんと相手の顔を見ること。そうそう僕は観察力がどうにも低く、その一因はおそらく相手の顔をあまり見る習慣がないことにある。僕は人を顔よりもシルエットで見るタイプなのです。だからたとえば入れ歯が入ってるかみたいな初歩的なことを割とミスったりしてしまう。お前本当に昇進するのか? ちゃんと顔を見るのだポッター。

今回の夜勤で僕はかなりそれをやったのだと思う。もちろん足りないところは多々あっただろう。ただ今回は不思議テンションということもあり、なんていうか、かなり落ち着きながら色々なことに優しめに対応できたのではないか。動きながら仕事をするので思考は往々にして行動により形成され、行動や言動のパターンが思考や気分を形づくっていく。とりあえずこのテンションを「TTテンション」と名づけてみることにした。恩師が講演している時がだいたいこんな感じだ。まあ実際の自分とはだいぶ違うのだけど、とりあえずこれでやってみようかな、みたいな、まあできるかどうかはわからないんですけどね、みたいな、そんなお話。